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世界一貧しい人権講演家

 ようこそ人権講演会講師具志アンデルソン飛雄馬公式サイトへ
       Anderson Hyuuma Gushi official web site


じんけんこうえんか ぐしあんでるそんひゅうま
人権講演会講師 具志アンデルソン飛雄馬
肩書き 多文化共生NPO世界人 理事長

プロフィール

日系3世ブラジル人。ブラジルに移住した日本人の子孫であり、1990年に来日。
来日後、自分自身学校・社会で文化の違いや言葉の問題により「いじめ」や偏見、差別などの問題に直面し、暴走族を結成するなど非行に走る。
そこからは想像もつかない波乱万丈な人生を送る。
現在、自分の体験をもとに三重県内の小・中・高校で国際化対応教育指導員として、子どもたちの指導・相談サポートを行っている。また、NPO活動を通じて、実態調査・生活相談事業・署名活動・請願活動や市民、学生、企業、 行政、教師を対象に講演活動を行っている。

講演会実績

日本生命/カネボウ・トリニティ・ホールディングス梶^劾TTドコモ/クラシエホールディングス梶^TOYOTA/愛知同和問題企業連絡会/潟uラザー工業/スギ薬局/AJALT/大阪同企連/大阪市企業人権推進協議会/大阪吹田企業人権協議会/大阪豊中企業人権啓発推進員協議会/京都医師会/三重県人権啓発推進モデル企業要請講座/三重県松阪市人権啓発企業連絡会/三重県松阪自動車学校  >その他実績多数


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     メールアドレス gushi@ymail.ne.jp
                 gushihyuma@gmail.com

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講演会レポート

「多文化共生NPO世界人」の理事長、具志アンデルソン飛雄馬さんが、「日本社会を生きる世界人〜苦しみの中にもきっと幸せがある」と題し、大阪府内の高等学校でご講演されました。

世界一貧しい人権講演家

日本で待ちうけていた、壮絶ないじめ

1990年にお父さんの仕事の都合で、ブラジルから日本に渡ってきた具志さん。

日本の小学校に入ることになりましたが、日本語も分からず、文化にもなかなか馴染めなかった具志さんに対し、次第に暴力や暴言などのいじめが始まりました。

中学生になると、状況は一段と悪くなっていました。
敬語がわからなかった具志さんは、先輩たちから目をつけられるようになっていったのです。

そしてある日、いじめグループのリーダーに胸倉をつかまれた時に我慢の限界が来て、気がつくと拳を振っていました。

ケガをさせてしまった生徒の家に見舞いに行くと、「ここは日本なんやから、日本式で謝れ」と言って、無理やり土下座させられました。

「今まで散々自分のことを殴ってきた相手になんで謝らなあかんのや!ちょっとぐらい事情を聞いてくれよ!」必死に訴えた具志さんでしたが、誰も耳を傾けてくれませんでした。

このことがきっかけで学校を退学。入学した定時制高校も、暴力事件をきっかけに、すぐに退学することになってしまいました。

いじめから非行の道へ

世界一貧しい人権講演家

学校には居場所がなかった具志さんは、不良の世界へ。
暴走と喧嘩の毎日を送るようになりました。

「良くないことをしているということは理解していましたが、不思議と不良の世界では外人と差別されることはありませんでした。この世界では、拳さえ強ければ、自分が誰でも人は集まってきました。」

ケンカが強かった具志さんのもとには、たくさんの不良たちが集まり、ついには愚連隊、暴走族を結成するまで大きな組織になりました。しかし、傷害事件を起こしてしまった具志さんは、ある日、逮捕されてしまいました。

人生を変えた出会い

拘置所に拘留されていた具志さんを、ある「おっちゃん」との出会いが具志さんを変えました。

拘置所の中で出会ったその「おっちゃん」は、
「自分には家族も仕事もない。でも、ここに来たらご飯だけは食べられる。もうこれしか生きる方法がないんだよ」と言い、涙を流し始めました。

そして最後に、「おっちゃんは今回たぶん刑務所の中で死ぬことになると思う。兄ちゃん、社会に戻ったら、おっちゃんの分まで頑張って生きてや。何があっても、2度とここに戻ってくるなよ。おっちゃんとの約束やからな」と具志さんに話しました。

この時具志さんは、「社会に復帰したら、絶対人のためになることをするんだ」と自分に言い聞かせ、決断をしました。

それは「若者たちが僕のような過ちを犯さぬよう何らかの活動を始めること」でした。

世界一貧しい人権講演家

夢をかたちに

社会に復帰した具志さんは、暴走族を解散させ、ビジネスグループを形成しました。

そして、現在は日本語指導員や子どもたちの相談サポート、全国での講演活動、外国人問題に関する新聞連載記事の執筆、グシグループでの「クリーバ基金」の形成・運営、日本語学習支援サイトの設立などに携わっています。

「犯罪者というレッテルを貼られ、誰からも相手にされなかった時も、僕はひたすら自分を信じ続けました。みなさんも一生懸命生きてください。必ず誰かが見ていてくれています。そして人の痛みがわかる大人になってください。」

具志さんの熱いメッセージを通じて、子どもたちは大切なことをたくさん学んでいました。

講演会テーマ

1. 日本社会を生きる世界人〜苦しみの中にもきっと幸せがある〜
今もなお日本には差別の問題がいろいろあります。多民族が共に生きて行ける社会、お互いを尊重し共存していける社会をつくっていくためには、「一人ひとりが理解していく」ことから始まっていくと思います。自分自身の波乱万丈な体験や、言葉が通じないのはどういく感覚なのかなど、映像や写真、音楽などを使い、「差別がいかに多くの人を傷つけるか」ということを訴えます。

2. 多文化共生社会の実現を目指して〜差別事象から学ぶ〜
現在、日本全国で暮らす世界人は200万人を超えていると言われています。少し前までは「出稼ぎ」と言っている時代があったのですが、今では長期滞在や永住権を希望する方が増加している。グローバル化と言われる時代の中で多文化共生社会を実現させることは重要なことであり、そのためにも一外国人としてではなく一国民として受け入れ共生していく必要がある。「多文化共生社会の実現を目指して」では世界人が増え続ける理由と現状、また、日系人と言われる人たちのルーツ。そして日常的に起きる差別や偏見から何を学ばなければならないのかについて話します。

講演会感想

  • 胸にずっしりとひびいたお話でした。多文化共生は大切だとわかっていたつもりでしたが、まだまだ甘かったと痛感しました。「知る」ことの大切さ、心と心でわかりあうことの大切さを改めて感じました。方策と言われてもすぐに思いつかない自分が情けないですが、目の前の子どもたちをしっかり見つめちがいを認め合いお互いを尊重して生活していくことの大切さを伝えていきたいと思いました。
  • 差別やいじめについて、知らなかったことばかりで勉強になりました。自分も知らず知らず人権を傷つける行動をしていたのではないかと考えさせられました。子どもたちの学校にもフィリピン人、ブラジル人の子どもたちが一緒に学んでいるので、今日感じたこと、学んだことをわが子に伝えたいと強く思う。「知る」ということは大切なことだと感じました。
  • 今日、具志さんのお話を聞かせてもらえたことは(大げさな表現に聞こえるかもしれませんが本当に一生忘れられないと思います。)ガツンと頭をなぐられた感じです。今日、たくさんの事を感じ考えました。そのことを自分なりに整理し、これから自分にできることは何か具体的に考えていこうと思います。
  • 外国人差別の問題は相手を知らない、ことが大きな原因で、会って話せば友達になれる。いろんな国のいろんな食べ物をたべたり文化を知れたり、言葉が知れるそんな楽しさ、面白さ、よさに着目していきたいです。何にも構える必要はないと思いました。
  • TVで見るドラマはある程度オーバーな筋書きだと思って見ておりました。具志さんの体験談から、それよりももっと厳しい残忍さで、しかも子どもたちによって行われていることに衝撃を受けました。想像を越える出来事の話でも、自分で道を開いていけば必ず明るい道が開けるんだと・・・親子共々、色々学んで道を開いていければいいなと思いました。
  • 具志さんの想像を絶するような15年間の話に引きこまれました。大変努力されて、今に至っているのだなと思います。差別やいじめに合った時、それをはねのけるような力を子どもたちにつけることは本当に必要だと痛感しました。人間ってどうしても差別心があるのだろうか・・と、話を聞きながら、とても悲しくなりました。少しでも人の痛みに気づける人間になりたいと思いました。
  • 単なる外国人差別にとどまらず、人間としてどう生きていくべきか、他人とどう共生していくか、深いテーマの話を聞くことができ、自分自身のためになった。子どもにも私自身も強くなりたいと心から思いました。貴重なお話ありがとうございました。うまく言えませんが今日はいろんな思いで胸がいっぱいです。
  • 強い人だと思いました。あきらめない心、一番大切だと思いました。やればできる、忘れないでいきたいと思います。「今の社会、ぐしゃぐしゃだけど…」とおっしゃっていたこと心に残りました。一人ひとりが大切にされる社会が実現できるようがんばっていきましょう。
  • 本音や建て前を持っている分、大人の差別や偏見といった問題は根が深いと個人的には思います。多様性を認めつつある現代の日本ですが、差別の問題はいまだに消えることはありません。よりよい社会が形成されるよう私も頑張りたいと思います。とてもわかりやすかった。家に帰って早速不要なものを整理したい。


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新聞記事


UNION OF CATHOLIC ASIAN NEWS

  Japanese-Brazilian befriends the friendless

 Anderson Hyuma Gushi

Published Date: October 5, 2010

By ucanews.com special correspondent, Tokyo


Anderson Hyuma Gushi is a third-generation Japanese-Brazilian who immigrated to Japan 20 years ago. Haunted by abuses and his past mistakes, he suffers from flashbacks and currently undergoes treatment for depression and autonomic ataxia.

But Gushi has overcome his demons by dedicating his life to people such as the solitary elderly and immigrant children.

Gushi arrived in Japan at age 11 when his family moved to Tsu City in Mie Prefecture.
In elementary school, the language barrier and his foreign name led his peers to sometimes hit him, call him names, or shout, “Go home, foreignerl’’

Gushi’s teachers also treated him as a nuisance, making him switch classes every month.
During middle school he was regularly assailed in the bathrooms during recess. One day, he got fed up and started retaliating with karate moves he learned in Brazil. After that he got into fights every day. This continued at the high school which he attended at night while working during the day.

“For me, rebellion against society led to delinquency. That was my survival mechanism.’’
He formed a bike gang and sunk into a life of violence. But none of his fellow members treated him badly for being a foreigner. Eventually, he became gang leader.

Then, one day, his father’s acquaintance, a high-profile businessman, introduced Gushi to some influential men, including entrepreneurs and politicians. “Among the people I met was a former bike-gang member who went on to become a company president. I became hopeful.’’

Gushi grew close to that president and ended up working in the natural foods industry. But his efforts were halted when his father passed away.

After that Gushi was plagued by interminable thoughts of death. His driving became reckless and he caused a traffic accident. While in jail awaiting trial, Gushi realized that about half the prisoners were old men without work or family, who had broken the law just to eat. He asked, “Is this what Japan is really
like ?’’

This led Gushi to two decisions: First, he would prevent other children from making the same mistakes he had. Second, he would create an organization to help the elderly.

Gushi went to elementary schools as a volunteer translator for Brazilian students living in Japan. To his dismay, problems with bullying and teachers’ attitudes hadn’t changed at all.
As of 2009, there are 267,500 Brazilians in Japan.

In the past nine years, Gushi has given 750 talks at schools nationwide about his experiences and bullying issues. He has been featured in newspapers and on TV for his work.

A Catholic, Gushi always wears on his breast a medal bearing Christ’s image.


 
カトリック新聞 2018年9月23日

70 心で子どもたちと向き合う


「外国につながる子ども」たちの学校教育を考えるシリーズ。第70回は、三重県津市在住の人権講演家、具志アンデルソン飛雄馬さん(39)を取材した。具志さんは1990年、入国管理法の変更後、初めてブラジルから津市に移住してきた外国籍児童だった。「いじめさえなければ別の人生を歩んでいた」と語る具志さんに、波瀾万丈の人生と、多文化共生社会の実現を訴える講演会活動について聞いた。

 
いじめが原因で暴走族に入ることを余儀なくされた少年時代とその後の人権活動を語る講演会は、18年間で千五十回を上回る。初めに紹介するのは、2枚の画像だ。「暴走族の総長だった自分」と、更生後に全国人気販売員大会で「全国2位の営業マンとして表彰された頃の自分」。子どもたちに一番伝えたいことは、「肌や目の色が違っても、皆、同じ人間だ」ということ。

 「デカセギ」の陰で1990年、日本政府は、労働力不足を解消するために南米等の日系人が来日でき
るように入国管理法を変更した。しかし、政府は、その子どもたちの教育問題については全く考えていなかった。
 家族と共に来日した時、具志少年は11歳。日本では日本語が分からなくても、年齢相当の学年に編入させられるため、言葉が分からない具志少年は授業中、ただ座っているだけ。教師も対応が分からず、具志少年を毎月、複数のクラスでたらい回し状態にしたのだ。そんな中で地獄のようないじめが始まった。殴る蹴るの暴力。「外人帰れ。お前の日本語キモチ悪い」という罵詈雑言。そして仲間外れにされた。両親が学校に何度も抗議しても凄絶な状況が日本語では伝わらなかった。
中学生になると、今度は敬語の問題にぶつかり、先輩からは「タメぐち(友だち口調)」を利いたと袋だたきにされた。ある日、我慢も限界に達し反撃した。その一撃が先輩の目に当たり、先輩の父親からは土下座を強要された。中学2年になってからは学校を休みがちになり、毎日ケンカに明け暮れた。ブラジルではカトリック小学校に通っていた具志少年は、スポーツ万能で、成績も良かった。大学に行く憧れも持っていた。日本でも高校進学を望むが、定時制高校で再びいじめに遭い、ケンカになれば、教師は具志少年だけを悪者にして、退学させた。
暴走族の世界に入ったのは、ここでは「外国人」という理由で差別されることがなかったからだ。気が付けば、数百人の暴走族を率いる「総長」になっていた。「僕がいじめられていることを知りながら、見て見ぬふりをした当時の先生たちには、『自分の教え子を守れないなら、やめてしまえ!』と言いたい。ちゃんと、一人一人の子どもが負っているその背景を見てほしい」

 人生は変えられる
 19歳の時のことだ。暴力団の目に留まり、スカウトされたのだ。「ヤクザの道しかないのか」と悩み始めていた頃、父親がある社長を紹介してくれた。その社長は、具志少年をいろいろな業界の人に引き会わせた。その中には人生を変えて生きている元暴走族や元暴力団員も多くいた。
 「人生は変えられる」と感じた具志さんは、その社長の下で営業マンとして働き始める。営業先でも外国人差別があったため、社長が漫画『巨人の星』の主人公にあやかって「具志飛雄馬」と命名。その日本名を名乗って働いた。自分の本名を隠すことについては複雑な心境だった。そんな矢先に最愛の父親が過労死する。
「この世で一番尊敬していた父の死で、僕は完全に抜け殻状態。自暴自棄になった僕は、道端で見ず知らずの人と肩がぶつかって口論の末、殴り合いのケンカになり、傷害罪で現行犯逮捕されてしまったのです」
 絶望のどん底にいた具志青年を決定的に変えたのは、拘置所で出会った人たちだった。半数以上が高齢者で、経済的な貧しさを抱え、また身寄りもなく孤独な人たちだ。
「僕にまだ可能性が残っているなら、人のために何かしたい」と考えるようになった。具志青年は、拘置所を出てすぐに教育委員会に通い続け、ようやくブラジル人児童の日本語通訳として小学校に入ることができた。それ以降、約15年間、毎週15校の小・中・高校を回り、「外国につながる子ども」たちの日本語指導員として勉強を教え、また相談相手として寄り添ってきた。
具志さんは日本で暮らして30年になるが、現在の子どもたちの姿にも「あの頃の自分」が重なると話す。いじめや差別の原因は、「親が子どもに差別意識を植えつけるからだ」と具志さんは断言する。だからこそ、学校に外部教員≠ェ入って人権教育をすることが必要だと考えているのだ。
実際に具志さんの講演を聞いた子どもたちは、講演後の感想で「親から『外国人は怖い』と聞かされてきたが、それは間違いだと気付いた」と率直な気持ちを語る。7年前、具志さんが念願だった少年院で体験を話した時、「具志さんみたいな大人になりたい」と言った少年もいたという。その一方で、「建前」の世界に流されて大人になっていく者もいる。
具志さんは、教え子たちに対しては「『建前』と『本音』を使い分けてる場合じゃない。言うべきことは言え」と、喝を入れる。そして大人たちに対しては、子どもたちに伝えたいことがあれば、「本気かつ、本音で言わないとダメだ」と力説。飛雄馬という名前は、英語の「HUMAN」(人間)が由来だという。具志さんが望んでいるのは、皆が同じ「人間」、「世界人」として生きられる平和で平等な社会だ。軽自動車を走らせ、今も全国各地を飛び回っている具志さん。節約のため車中に寝泊まりするが、真夏は暑さに耐え、真冬は毛布にくるまって我慢をする。それでも「全国の子どもたちに出会いたい」と願い、父親の形見であるキリストのメダイを首
に掛けて語り続けている。
 詳細は、公式サイト(http://gushi.g2.xrea.com/)の「講演会全国制覇企画」を参照。電子メールgushihyuuma@yahoo.co.jp





2014.3  No.624  全国人権教育研究協議会より、人権文化を拓く196

日本社会に世界人として生きる〜飛雄馬とHUMANの話〜



事件を起こした少年たちの前で、「世界人」として生きていることを語りたいと思い続けてきた。10年の間、一千回余りも全国各地で語り続けてきた2011年のこと、ようやく少年院で語る許可を得ることができた。許可を得るのが難しかったのは、僕の前科が理由であった。僕にとっては、だからこそ、少年たちにどうしても語りかけたいと思い続けてきた。
 少年院で話を終えた時、一人の少年が「自分も小さい時にいじめられていた」と泣き崩れた。もう一人は「この先、どう生きればいいのか?自分は誰からも必要とされていない」と、僕に答えを求めてきた。僕はこう言った。「時間はまだある。生涯最大のライバル、それは自分自身である。自分の人生は自分でしか生きられない。人は生まれた場所を変えることもできない。逆にそれは誇りなんだ。その事実をどう受け入れるかで、未来は必ず変えられる」と。
 1908年以降、日本の移民政策によって25万人もの日本人がブラジルに移住した。だが、それは「移民」ではなく「棄民」であった。差別的な背景と、奴隷とも言える過酷な現実があったからである。僕の苗字が「具志」であるのは、祖父母が沖縄から移住した証しである。1990年、入管法が変更され、日本の派遣会社は一斉にブラジルに入り込み、日系人に日本への出稼ぎの話を持ちかけた。僕は家族も来日することになった。日本に着くなり、11歳の僕も工場での仕事が待っていた。
 8ヶ月もかかって、小学校に受け入れられてもらった。小学校では、学年毎に6クラスあり、日本語が話せず理解できない僕は、1ヶ月ごとにクラスをたらい回しにされた。そして、先生の見ていないところでの地獄のような「いじめ」が始まった。暴力も当たり前になった。中学生になると、先輩後輩という関係が加わり、それを理解できなかった僕への「いじめ」はさらに激しくなった。高校への進学を望んでいた僕は、定時制高校へ進む。そこで、初めて一人の友だちができた。彼は、被差別部落の出身で、差別やいじめを受けた経験があった。しかし結局、「いじめ」をきっかけに暴力事件を起こし、高校を退学させられた。問題行動に走り、いつの間にか、数百人の暴走族のメンバーの「総長」になり、恐れられる存在になっていた。

 19歳の時、傷害事件で逮捕されたが、反省することなく、問題行動を続けていた。その世界だけは、誰も僕のことを外国人として差別しなかった。差別されないのなら、その生き方でいいんだと自分自身に言い聞かせて、問題行動をさらにエスカレートさせていた。次第に暴力団に目をつけられ、スカウトされた。その暴力団員が「俺は朝鮮人なんだ、だからヤクザになった。この国では真面目に頑張っても絶対に認められることはないぞ」と。僕もその道しか生きる道はないのかなと思い始めた時、父が一人の会社社長を紹介してくれた。社長は僕の生き方を否定するのではなく、いろんな業界の人間に出会わせてくれた。元暴走族や元暴力団員で、人生を変えた人たちも多くいた。
 僕も、自分の人生を変えたくなり、その社長の会社で営業マンとして働くことになった。しかし、すぐ壁にぶつかった。営業先で名前を伝えただけで、「外人さん?」とドアを閉められる。水を掛けられたこともあった。そんな時、漫画『巨人の星』の星飛雄馬の大ファンであった社長から、「具志飛雄馬」という名前で営業すること提案された。商品は売れ出したが、自分の本名を隠していることについて複雑な心境だった。
 具志飛雄馬で営業の仕事をし始めた時、父がくも膜下出血で倒れ、帰らぬ人となった。愛し尊敬していた人の死は、僕にとってこの世の終わりと言ってもいいくらい絶望的だった。
完全に抜け殻になっていた。そんなある日、見ず知らずの人と肩がぶつかって口論そして殴り合いになり、傷害罪で現行犯逮捕された。懲役1年、執行猶予2年という判決を受けた。
 僕の人生を変えたのは、拘置所にいた人たちだった。その人たちは怖い人たちではなく、行政職員、教師、会社をリストラされた人たちであった。一番驚いたのは、半分以上の人たちが高齢者であることだった。一人のおっちゃんは、家族も仕事もなく、経済的な貧しさからホームレスになるか、拘置所に戻るか、自殺するしかないと言うのだった。そんな人たちと出会って、ほんの僅かでも、僕にまだ自分に可能性が残っているなら、人のために何かしてみたいと思った。
 拘置所を出てすぐ、教育委員会をまわり、小学校に入ることは許された。「いじめ 」の問題は10数年前とほとんど変わっていなかった。むしろひどくなっている状態だった。目の前で外国籍の子どもたちが「お前、日本人違うやろ!国に帰れ」と言われていた。まるで、小さい時の自分を見ているようだった。
 「いじめ」は学校の中だけではなかった。露骨な実態が町の至るところにあった。学校の通学途中、外国人という理由だけで、警察に止められ職務質問を受ける。中学校の防犯教室で招かれた警察官が「外国人には注意してほしい」と発言する。ある店では外国人が入るとすぐに警戒態勢が取られる。住宅街の中で何かが起きると、何の根拠もなく外国人のせいにされる。
 また、日本人の人たちの多くは、「外国人」という言葉を省略して「外人」と言う。日本人が日常的に使っている「外人」という言葉には、異邦人という意味だけでなく、「仲間以外の人」や「敵視すべき人」というイメージが付きまとっている。辞書で調べてみても、そのように記されている。どうして僕たちは、この言葉で呼ばれなければならないのか?僕たちを辛い気持ちにさせる、この言葉を無くしたい。当事者がよく使ってきた「地球人」という言葉を使ったこともある。しかし、小学校で使ったあと、外国人に対して「俺は地球人。お前は宇宙人だよ」という差別事象が起こった。いま、僕は、「世界人」という言葉を使っている。人と人の間に、日本人、外国人という壁はない。みんな同じ世界に住んでいる同じ「世界人」である。

  三重県はもともと、外国人の多い県ではなかった。大手企業の工場が稼働しだしたことで、派遣会社が入り、外国人が雇用される。一気に外国人の人口が増えたのだった。しかし、生活、教育、医療など対応できる現状ではなかった。そのため、さまざまな課題に対応するため、僕たちは、「多文化共生NPO世界人」を立ち上げた。
 日本の社会構造は、僕たちが日本経済を“底辺”で支える「労働力」の枠から出ることができないように仕組まれている。一番上の兄は現在、福島の被災地で働いている。トレーラーの運転士だが、積荷の大きなタンクの中身については、一切知らされていない。選挙権もないのに、高い税金は支払わされる。その上、仕事上では政府のあと始末をさせられる。こんな理不尽なことがあっていいのかと思う。
 「多文化共生NPO世界人」は、三重県の行政に対して、外国籍住民を取り巻くさまざまな取り組みを求めてきた。実態捜査、教育指針の見直し、日本語と母語の学習の保障、高校入試の改善、企業に対する人権啓発など、県議会へも問題解決を訴え続けてきた。
 しかし、現実は厳しい。いまの日本は、非正規雇用が拡大し、社会へと不安と閉そく感が充満している。その中で「ヘイト・スピーチ」に代表されるように、こうした抑圧された人たちの怒りの矛先は、外国人に向けられようとしている。昨年、全国チェーンの薬局の店舗で外国人に対する差別掲示が発覚している。僕たちは、選挙権もない、守られる法律もない、非常に弱い立場に立たされている。その上、人権侵害を受けても相談できる場所もなく、多くは泣き寝入りをするしかない現状に置かれている。
 全国各地で外国人問題の現状の改善に向けて取り組んでいる団体は多く存在していると思う。全国的なネットワークができ、全国の仲間が力を合わせることで、今までにできなかった人権救済、外国人の参政権の実現、教育問題など幅広い取り組みを実現させたい。
 僕の名前「飛雄馬」は、これからも大事にしたい日本の名前である。『巨人の星』の作者は、人間らしい名前にしたいと願って、英語の「HUMAN」から「飛雄馬」という名前にしたという。一人の「世界人」として、HUMANに活動を進めていきたい。




読売新聞 2007年1月6日
 

「あきらめない」

生きる希望 必ずある
いじめ体験を語り続ける


 底冷えのする体育館で、200人余りの中学生がひざを抱え、静まりかえっていた。

 昨年12月中旬、冷たい小雨が降る三重県名張市の中学校。ワイシャツ1枚で話しかけた。
「これが、5年前の僕です」。スクリーンには、忘れたいはずの「過去」が映し出されていた。バイクの集団を引き連れた自分。改造車の前でカメラをにらみつける自分。「なんで非行に走り、なんで更生できたんか。それを、みんなに伝えていきたいと思います」

 10代の半ばから、けんかと暴走に明け暮れた。暴走族のトップに上り詰め、18歳で引退すると、今度は車を連ねて夜の街を走り回った。最初の逮捕は19歳の時。2度目に逮捕された後、妻と離婚した。

 生まれは、ブラジルのサンパウロ。日系3世だ。2世の父が日本に職を求め、一家5人で津市に移住したのは、11歳の冬。小学校で待っていたのは、外国人差別といじめだった。「ガイジン、気持ち悪い」。辞書でその意味を知り、周囲がどう見ているのかを知る。無視され、やがて暴力へと変わった。

 中学に入ると、いじめは激しさを増したが、教師は見て見ぬふり。中学2年の夏、「けんかだけはしちゃダメ」という母との約束を破った。それからは、めちゃくちゃに暴れた。「誰も理解してくれず、守ってもくれない」のが理由だった。

 中学を卒業しても、定職には就けなかった。「死ぬしかない」と思い詰め、ビルの屋上に上ったこともある。そんなころ、手を差し伸べてくれたのが、5年前に死んだ父が引き合わせてくれた知人の自然食品販売会社社長だった。

 何も聞かず、説教もせず、仕事先に連れていってくれた。教えられたのは、世の中の広さだ。自分も変われると思った。

 ただ、一度染まった世界を抜け出すのは、並大抵のことではない。「生き方を変えることを、古い仲間はどう思うか。逮捕歴のある外国人を一般社会は受け止めてくれるのか。でも、いつか抜けたい」。まずは恩人の社長のもとで、営業の仕事を覚えることから始めた。

 周囲を説得し、過去の自分と決別できた時、23歳になっていた。

 自らの体験を語るようになったのは、母校の教師に頼まれたのがきっかけだ。子どもたちの前で、身の上話を1時間余り。話が終わると、その教師は、「自分には教壇に立つ資格がない」と言って泣き崩れた。

 口コミで講演依頼は増え、役に立つのならと引き受けるようになった。

 講演は300回を超えた。いつも真剣勝負だ。当日は、朝から何ものどを通らない。すさんだ生活がよみがえり、夜は決まって悪夢にうなされた。「過去を美化するのか」という苦情が寄せられたこともある。

 それでも、理解してくれる人や、生きる希望を見つけてくれる子どもたちが一人でも増えれば、それでいい。やっと居場所が見つかったと感じている。

 最近は、「頑張れ」と励ましてくれる人も増えてきた。講演の後、子どもたちが握手を求めてくるのが何よりうれしい。

 もう道を見失うことはないだろう。「死んだら終わり だから生きるんだ」。講演タイトルは、自らに向けたメッセージでもある。(梅村雅祐) (おわり)


「前妻との子ども2人は、長女が7歳、長男が6歳。実家で母親の手を借りながらだけど、シングルパパとして子育ても奮闘中です」


移民と日系人
 日本人の最初の移住は明治元年のハワイ。以後、カナダ、豪州などが続き、戦前77万6000人が北米、南米などに移住した。こうした移民の子孫が日系人だ。
 
 最初のブラジル移民は、1908年6月18日、移民船「笠戸丸」で海を渡った781人。多くはコーヒー農園で働いた。現在の日本からブラジルへの移民は1世から6世まで140万人を数える。

 90年6月、出入国管理及び難民認定法が改正され、日系2,3世には就労も可能な「定住者」ビザ(最長3年)が与えられることになった。猛烈なインフレに苦しんでいたブラジルから大量の日系人が入国。ポルトガル語しか話せない子どもを受け入れることになった学校現場で混乱するなど、大きな社会問題となった。

 今年は、ブラジル移民100周年にあたる。




朝日新聞 2006年11月19日

「日系人 からかわれ、けられ非行へ」

いじめの傷語って300回
犯した過ち批判覚悟


 小学生の頃からいじめを受け、非行に走った経験をもつ日系ブラジル人の具志アンデルソン飛雄馬さん(28)が、三重県の小中高校で外国人児童の日本語指導にあたっている。外国人へのいじめや差別をなくしたいと2002年から始めた講演は300回を超えた。具志さんは「差別がいかに多くの人を傷つけるか知ってほしい」と話している。(原田朱美)

 具志さんが家族と共にブラジルから津市に移住したのは、11歳の時。日本語を全く話せない外国人に同級生は冷たかった。「手でご飯食べてるだろ」。突き飛ばされ、けられた。言葉や習慣を知らないだけなのに笑われた。

 いじめは年々激しくなった。でも、やり返さなかった。「ここは自分の国じゃない。好きにしてはいけない」と、両親から止められていた。

 中1のある日、ついに相手の生徒を殴り返した。なぜやったと問いつめる教師には、こたえなかった。「悪いけど、日本人は信用できん」。来日して約2年。味方はいないと、心を閉ざした。

 暴力をふるうことで、初めて自由になった気がした。高校を中退、暴走族に入った。ケンカをするために街を歩き、自分より強そうな者を殴って英雄気分に浸った。

 しかし、いくら拳をふるっても、幸せは得られなかった。「このままだとただのクズ」。知人の言葉にショックを受けた。息子の非行を嘆いていた父は2001年、「何もいいことがなかった」といい残し、くも膜下出血で亡くなった。

 父の死をきっかけに生き方を変えようと勉強を始めた。2002年、津市と松阪市の小中学校を巡回する国際化対応教育指導員になった。かつての自分のような子どもたちを助けたかった。

 学校などで講演も始めた。依頼は全国に及ぶ。自分が犯した罪を語ることは怖かったが、訴えたい気持ちが勝った。

 すべての人が理解をしてくれるわけではない。非行を美化したいのかと何度も言われた。自分の過去を非難されるのは、構わない。ただ、そうやって非行に走る子どもたちの背景は、知ってほしい。

 今春、一つの事件があった。具志さんが教えるパブロ君(13)が、障害のある女の子をいじめていた同級生を「やめろ!」と怒鳴りつけたのだ。いじめは、ぴたりとやんだ。自分も嫌な思いをしたから、他人に同じ思いをさせたくないと、パブロ君は言う。「逆に自分がやられるかもと怖かった。でも、具志さんと会って成長したから」。

 具志さんは今年1月、「多文化共生NPO世界人」を立ち上げた。外国人児童の生活相談や交流会などを開く。いつか、日本で育った彼らと共に、差別のない社会を目指して活動したい。それが、具志さんの夢だ。





中日新聞 2006年10月18日

外国人の子どもを支援 NPO理事長

「死んだら終わり、だから生きるんだ」
少年時代の心の傷を語る


「死んだら終わり、だから生きるんだ」ー。外国人の子どもを支援する「多文化共生NPO世界人」理事長で、ブラジル出身の日系三世・具志アンデルソン飛雄馬さん(28)=津市=が、こんなタイトルの講演会を愛知県小牧市で開いた。具志さんは少年時代、学校や地域に居場所がなく非行に走り、大人になってからも「暴力」から抜けれない生活が続いたという。今、再び前向きに生きようと決意し、自分の生い立ちを語ることで「これからの子どもたちに、同じような過ちを繰り返させたくない」と訴える。   (酒井ゆり)

 具志さんは十一歳の時、サンパウロから家族とともに来日。地元の小学校に通い始めたが、しばらくすると同級生たちの輪に入れてもらえなくなった。「外国人のくせに」「くさい」などと笑われたこともたびたび。「先生の目が届かないトイレや休み時間中は、殴られたり、けられたりが日常茶飯事だった」

 中学校に入ると、いじめはさらにエスカレートした。「ご飯は手で食べているんだろ」「おまえの日本語、気持ち悪い」。度重なる暴言に耐えきれず。一度相手を殴ってしまったことがあった。そこだけを見た先生は「おまえが悪い。謝れ」と言った。「この時、自分はここに存在している意味はないとさえ思った」。

 それでも高校への夢は捨てきれず、定時制に進学。そこでも暴力が待っていたが、今度は殴り返した。すると、不思議と仲間が増えていった。「不良は、自分たちも心に傷を抱えている。だから、以前のように外国人だからと言うだけで、差別されることがなかった」けんかしている時だけは、生きている充実感が味わえた。

 その後、仲間うちで傷害事件が発生。逮捕され、約一か月後に釈放されたが、その後も生活は変わらなかった。「内心はまじめになりたいと思った。でも、なかなか仲間と縁を切ることができなかった」。

 転機が訪れたのは二十歳の時。子どもが生まれ、真剣に生活を考えていかなければならなくなった。父親の知り合いの社長が営業の仕事を紹介してくれた。頑張れば、頑張るほど、売り上げが伸び、働くことの楽しさを知った。

 ようやく前向きに頑張ろうと思ったころ、父親が病気で他界。最期は「四十八年間生きてきて、何も楽しいことがなかった」とだけ言い残して。「あまりにも悲しい言葉。また生きる気力がなくなった」。荒れた生活に戻り、再び傷害事件を起こして塀の中へ。だが、そこで出会った年上の人に「あんたみたいな若者が、こんなところにいたらあかん」とさとされて、思った「99%だめな人間でも、1%でも価値があれば生きていけるのだと」。

 社会に復帰した後は、それまでの仲間とはきっぱり決別。今は三重県内の学校で国際化対応教育指導員として、外国人の子どもたちのサポートに尽力している。今回の講演は少年支援のNPOジュヴェニルの活動に協力した。「今でも僕と同じような状況の子どもたちがたくさんいる。自分の生い立ちを話すことは苦しいが、こうした子どもたちの気持ちを少しでも分かってもらいたい」と言う。

 支援活動の傍ら、大学進学を目指して受験勉強にも励んでいる。外国人の子どもたちが、少しでも将来に希望が持てるようにー。





大阪日日新聞 2005年4月4日

世界の人々が仲良く暮らせる社会を願うと語る具志さん

「外国人受け入れ整備を」
経験交えて講演会


 東淀川一丁目の市立日之出人権文化センターはこのほど、多文化共生社会の在り方について考える講演会を同館で開いた。講師を務めた日系ブラジル人三世・具志アンデルソン飛雄馬さん(26)=三重県=が自らの人生を振り返り、真の国際化が求められる日本での外国人の受け入れ態勢を整えることの重要性を説いた。

 具志さんは、三重県内の小中高校で国際化対応教育指導員として、外国人児童生徒らをサポートする一方、各地で講演活動などを行っている。

 講演会で具志さんは、ブラジルに移住した日本人の子孫である日系ブラジル人の歴史背景を説明する一方、十五年前にブラジルから来日し文化や言葉などの違いに悩まされ、学校や社会で受けた差別から非行に走った経験を語った。

 「ジャパニーズなのに」差別を受けることで直面したルーツへの戸惑い、非行グループの長となりその世界から抜け出せないあせり、父の死で自責の念に駆られ自暴自棄になったことなど、心の葛藤を赤裸裸に告白。「死なずに生きてきて良かった」と含蓄ある言葉で振り返る具志さんの人生を垣間見て、来場者ら約五十人は目頭を押さえていた。

 また、国内には約百八十万人の外国人が在住し、その数は増加傾向にあるものの教育現場での外国人の受け入れ態勢は整っておらず、子どもが抱える人権問題は当時と変わっていないことを強調。

 「国際化が進むことで日本での差別の歴史は変わると思う。日本の国際化社会に貢献していきたい」と熱意を見せた。 (寺田英祥記者)