生きる希望 必ずある
いじめ体験を語り続ける
底冷えのする体育館で、200人余りの中学生がひざを抱え、静まりかえっていた。
昨年12月中旬、冷たい小雨が降る三重県名張市の中学校。ワイシャツ1枚で話しかけた。
「これが、5年前の僕です」。スクリーンには、忘れたいはずの「過去」が映し出されていた。バイクの集団を引き連れた自分。改造車の前でカメラをにらみつける自分。「なんで非行に走り、なんで更生できたんか。それを、みんなに伝えていきたいと思います」
10代の半ばから、けんかと暴走に明け暮れた。暴走族のトップに上り詰め、18歳で引退すると、今度は車を連ねて夜の街を走り回った。最初の逮捕は19歳の時。2度目に逮捕された後、妻と離婚した。
生まれは、ブラジルのサンパウロ。日系3世だ。2世の父が日本に職を求め、一家5人で津市に移住したのは、11歳の冬。小学校で待っていたのは、外国人差別といじめだった。「ガイジン、気持ち悪い」。辞書でその意味を知り、周囲がどう見ているのかを知る。無視され、やがて暴力へと変わった。
中学に入ると、いじめは激しさを増したが、教師は見て見ぬふり。中学2年の夏、「けんかだけはしちゃダメ」という母との約束を破った。それからは、めちゃくちゃに暴れた。「誰も理解してくれず、守ってもくれない」のが理由だった。
中学を卒業しても、定職には就けなかった。「死ぬしかない」と思い詰め、ビルの屋上に上ったこともある。そんなころ、手を差し伸べてくれたのが、5年前に死んだ父が引き合わせてくれた知人の自然食品販売会社社長だった。
何も聞かず、説教もせず、仕事先に連れていってくれた。教えられたのは、世の中の広さだ。自分も変われると思った。
ただ、一度染まった世界を抜け出すのは、並大抵のことではない。「生き方を変えることを、古い仲間はどう思うか。逮捕歴のある外国人を一般社会は受け止めてくれるのか。でも、いつか抜けたい」。まずは恩人の社長のもとで、営業の仕事を覚えることから始めた。
周囲を説得し、過去の自分と決別できた時、23歳になっていた。
自らの体験を語るようになったのは、母校の教師に頼まれたのがきっかけだ。子どもたちの前で、身の上話を1時間余り。話が終わると、その教師は、「自分には教壇に立つ資格がない」と言って泣き崩れた。
口コミで講演依頼は増え、役に立つのならと引き受けるようになった。
講演は300回を超えた。いつも真剣勝負だ。当日は、朝から何ものどを通らない。すさんだ生活がよみがえり、夜は決まって悪夢にうなされた。「過去を美化するのか」という苦情が寄せられたこともある。
それでも、理解してくれる人や、生きる希望を見つけてくれる子どもたちが一人でも増えれば、それでいい。やっと居場所が見つかったと感じている。
最近は、「頑張れ」と励ましてくれる人も増えてきた。講演の後、子どもたちが握手を求めてくるのが何よりうれしい。
もう道を見失うことはないだろう。「死んだら終わり だから生きるんだ」。講演タイトルは、自らに向けたメッセージでもある。(梅村雅祐) (おわり)
「前妻との子ども2人は、長女が7歳、長男が6歳。実家で母親の手を借りながらだけど、シングルパパとして子育ても奮闘中です」
移民と日系人
日本人の最初の移住は明治元年のハワイ。以後、カナダ、豪州などが続き、戦前77万6000人が北米、南米などに移住した。こうした移民の子孫が日系人だ。
最初のブラジル移民は、1908年6月18日、移民船「笠戸丸」で海を渡った781人。多くはコーヒー農園で働いた。現在の日本からブラジルへの移民は1世から6世まで140万人を数える。
90年6月、出入国管理及び難民認定法が改正され、日系2,3世には就労も可能な「定住者」ビザ(最長3年)が与えられることになった。猛烈なインフレに苦しんでいたブラジルから大量の日系人が入国。ポルトガル語しか話せない子どもを受け入れることになった学校現場で混乱するなど、大きな社会問題となった。
今年は、ブラジル移民100周年にあたる。 |