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 関東大震災の虐殺事件と現代(2)少数者に対する「恐怖」の問題

  来年の9月には関東大震災の虐殺事件が起きて100年を迎えます。ちょうど2年前のブログに、「関東大震災の虐殺事件と現代」という記事を2回投稿しましたが、今回は再編集した記事の2回目を掲載します。
 なお、今回触れている、職場で民族差別的な文書を繰り返し配布し、社員の在日朝鮮人の女性に精神的苦痛を与えた大手不動産会社「フジ住宅」(大阪府岸和田市)に対する損害賠償を求めた訴訟で、最高裁は9月8日付で会社側の上告を退ける決定をしました。この「大阪のヘイトハラスメント裁判」については、2020年の7月25日と8月2日のブログで詳しく取り上げています。

他者の痛みに対する想像的理解と共感
 1987年6月に出版された藤田敬一『同和はこわい考―地対協を批判する』(阿吽社)は、書名のショッキングさとも相まって、多くの反響をまきおこした。その中に、『同和はこわい考』では余り掘り下げられていなかった「同和はこわい」という意識と民衆の集合意識との関連の問題について指摘したのが、高麗恵「エステルと会って。その後、井戸端会議風に(藤田敬一氏の“同和はこわい考”にいっておきたいこと)」(幻野の会『幻野通信』復刊第五号、1988年5月26日)であった。このエッセイで、高麗は「えせ同和やオドシ同和が『こわさ』の原因なら、それはいかなる行政施策にもつきまとうタカリ屋の群れだから気にすることはない。『こわさ』の原点は、ごく普通の人々の性根の中にある。この人々は『こわさ』の再生産を飽きずに心掛けており、知らない人には何とかして伝えたいとお節介を買って出る人々で、『同和だよ』『こわいよ』と上手に伝達できるとひと荷物をおろしたようなほっとする顔をする人々です。」(1)と述べ、「同和はこわい」という噂とその拡散が「ごく普通の人々」の被差別部落の人たちに向ける恐れや疑念といった感情=「性根」と結びついているものだからこそ執拗なものであることに注意を促した。
 前回のブログでも、このような「人々に恐怖を一方的にあたえる側が、恐怖をあたえられる側に恐怖する」(2)という民衆の意識と「帝国的国民主義」との関連について少し触れたが、太平洋戦争の敗北によって植民地を喪失した戦後日本における「帝国的国民主義」の問題について、コーネル大学教授で歴史学者の酒井直樹氏は次のように述べている(3)。

 戦前の「満州国」は、建前上は独立国でしたが国家経営や経済運営においてまぎれもなく日本の属国であり植民地であった。ちょうど同じように、連合国による占領の後の1952年以降の日本も建前上は独立国だったが、軍事・外交等の面では「合衆国の満州国」であり今もそうあり続けている。そうしたなかで、合衆国は東アジアの管理を、植民地支配のノウハウを知っている日本を通じて間接的に行おうとして、「下請けの帝国」の地位を日本に与えた。こうして、東アジアや東南アジアの人々に対して植民地宗主国の立場を依然としてとることを許された日本は、アジアでかつて日本が占領した地域やその住民に対して傲慢で見下す態度で臨み、あたかも日本と近隣諸国との間に未だに植民地統治の位階が存続しているかのように、傲慢な帝国主義者として振る舞うことを厭わない。

 このように、戦後の日本は、パックス・アメリカーナ(「アメリカの支配の下の平和」の意味)の下で「下請けの帝国」の位置を与えられることによって、戦争に負け植民地を喪失したにもかかわらず、「帝国的国民主義」を温存してきたのだった。そのような戦後日本における「帝国的国民主義」の問題を顕著に表したものとして、「東証一部上場の不動産大手『フジ住宅』(大阪府岸和田市)」において「社員教育」として、「2013年2月〜2015年9月に従業員に対し、中国人や韓国人などを『嘘つき』『野生動物』などと侮蔑する雑誌やインターネット上の記事などの文書を職場で配布するなどとした」(『朝日新聞』2020年7月3日』)、という事件をあげることができる。
 私の住む松阪でも次のようなことがあった。今から20年ほど前に、私の友人である具志アンデルソン飛雄馬さんに起きた事で、彼は次のように語っている。

 夜の11時に、松阪市内のある交差点を右折しようとした時のことです。仕事帰りで僕の車には4人乗っていました。たまたま同じ方向から、暴走族のバイクが10台ほど通過しました。すると、交差点のガソリンスタンドに隠れていた警察官が写真を撮り始めたのです。警察官はバイクが通過した後、なぜか僕の乗っていた車を撮り始めました。
 その車は、友だちから借りていた車だったので、万が一、友だちに迷惑がかかるといけないので、Uターンして、閉まっていた真っ暗なガソリンスタンドの前に車を止め、「俺は暴走族とは何の関係もない。なぜ、車の写真を撮るんだ。」と警察官に聞きました。
 すると、警察官は「お前ら、車から降りてこい。お前、免許書見せろ!なんだ、お前、外人?」と言い、次の瞬間、暗いガソリンスタンドの奥から、怖そうな警官が二人出てきました。
 「おい、外人の運転手、こっちこい!」と言って、4人のうち、僕だけが掴まれて奥へ連れて行かれました。そして、「なんか、文句あるのか!」と言われて、腹を三発殴られました。
 「今から、留置所に入れてやろうか!それが嫌なら、土下座しろ!」と言われ、なんで土下座しなければならないのか、意味もわからないまま、ただ怖くて土下座しました。
 「警察舐めんなよ、さっさと帰れ!」
 車に乗った時、後輩たちが「何かあったんですか?」と聞きましたが、僕はひたすら「くそー!」と言って、叫びました。
 今思い出しても、あの時の警察官の顔と屈辱は忘れられません。

 2020年5月25日に米国のミネアポリスで黒人男性・ジョージ・フロイ
ドさんが警察官によって殺害され、黒人に対する暴力と構造的な人種差別の撤
廃を訴える「ブラック・ライヴズ・マタ―」運動が世界中に広がった。日本で
は人種差別の問題が隠蔽されていることもあり、多くの日本人はこの問題に鈍
感であるが、米国で起きたのと同じような事件が現実に日本でも起きているの
だ。こうした行為が警察官個人による特殊な事例ではないことは、次のことか
らも明らかである。
 2005年12月22日、松阪市内の殿町中学校の「防犯教室」の講師とし
て招かれていた松阪警察署生活安全課課長が生徒の前で「みなさん、広島県で
ペルー人の男性が小学校一年生の女の子を殺害した事件を知っていると思いま
す。犯人は鈴鹿市の平田町で逮捕されました。そういった不良外国人が増加し
ています。近いうち、松阪市にも不良外国人が押し寄せて来ると思いますので、
決して近づかないようにしてください。もし、不良外国人がいた場合、すぐに
逃げてください。」と発言した。その後、この発言を知った私たちは、松阪警察
署に対して厳重に抗議し、松阪警察署は「署としての責任を認め、署員の人権
意識の向上のための取り組みを行う」ということを約束したが、この発言がそ
の場限りの思いつきではなく、警察としての考え方や方針を反映したものであ
ることは、まず間違いないだろう。
 このように、日本においても、「為政者が少数者の叛乱の潜在性に強迫的な恐怖を持っていて、その恐怖に促されて様々な政策を案出」し(4)、「人々に恐怖を一方的にあたえる側が、恐怖をあたえられる側に恐怖する」(5)という状況は継続している。関東大震災の虐殺事件は、今から100年近く前のことだが、このような一人ひとりの人格や命が無視される状況が存在している限り、それは今でも起こり得る危険性をはらんでいるといえるだろう。
 先に触れた『同和はこわい考』をめぐる論議のなかで、戦後文学を代表する長編小説『神聖喜劇』の作者・大西巨人は、『朝日ジャーナル』1988年8月5日号に「部落解放を『国民的課題』にする一つの有力有効不可欠な道」という批評を発表し、その冒頭に詩人表棹影の短歌「日は紅しひとにはひとの悲しみの厳かなるに泪は落つれ」を引用して、「『ひとにはひとの悲しみの厳かなる』を、私は、“各人各様の哀苦の感情移入的な相互了解尊重”というふうに解する。」と述べている。私たちが「帝国的国民主義」や「人々に恐怖を一方的にあたえる側が、恐怖をあたえられる側に恐怖する」という意識を克服するためには、大西が述べているように、困難な課題ではあるが、“各人各様の哀苦の感情移入的な相互了解尊重”、すなわち、他者の痛みに対する想像的理解と共感的連帯の感覚を絶えず研ぎ澄ますことが求められているといえるだろう。


(1)藤田敬一『同和はこわい考』通信13号(1988年6月20日)からの重引。
(2)八木晃介『〈癒し〉としての差別』(批評社、2004年、255頁)。
(3)酒井直樹「帝国の喪失とパックス・アメリカーナの終焉―東アジア共生の条件」(『新潟国際大学 国際学部 紀要』創刊準備号、2015年7月)。
(4) 同  「レイシズム・スタディーズへの視座」(鵜飼哲、酒井直樹、テッサ・モーリス=スズキ、李孝徳『レイシズム・スタディーズ序説』(以文社、2012年、55頁)。
(5)前掲注(2)。




 “憎しみに居場所なし”

 “憎しみに居場所なし”
―映画「ブラック・クランズマン」を観て@―

ゆめネットみえ通信
植民地的な関係と「アメリカの野蛮」
 今月16日に合衆国の首都ワシントンで開かれた日米首脳会談について、菅義偉首相は訪米前の3月末に「直接会談する最初の外国首脳。バイデン政権が我が国との関係を極めて重要視している証しだ。」と強調していました。このような見解について、海野素央明治大学教授(異文化間コミ二ュケーション論)は「日本の首相にとって米国大統領と会う順番は、通信簿のようなもの。めぼしい成果はなくても、順番だけで米国との蜜月をアピールできる首脳会談は、外交の点数稼ぎになる。(略)対面会談はこれまで日本の首相が訪米する形で実現してきた。力関係は日本が劣勢で、恋愛で言えば2人の間に『温度差がある』ということだ。」(『朝日新聞デジタル』2021年4月14日)と解説しています。
 こうした日本とアメリカの非対称的な関係について、酒井直樹コーネル大学教授(日本思想史、比較文化論)は「サンフランシスコ平和条約体制下での独立以降、国際法でいう領土国民国家主権でありつつ、戦後一貫して日本は合衆国の属国の立場に甘んじ日本国民は半植民地条件下に置かれてきました。戦前の『満州国』は、建前上は独立国でしたが国家経営や経済運営においてまぎれもなく日本の属国であり、植民地でした。ちょうど同じように、連合国による占領の後の1952年以降の日本も建前上は独立国でしたが、軍事・外交等の面では『合衆国の満州国』であり今もそうあり続けているといってよいでしょう」(「帝国の喪失とパックス・アメリカーナの条件」『新潟国際情報大学 国際部 紀要』創刊準備号、2015年7月、7頁)と語っています。
 米日の関係が基本的には植民地的な関係であるという酒井氏の考えに私は同意しますが、このような植民地における人々のことを、〈ネグリチュード〉(黒人性)を唱道したマルティニックの詩人、政治家のエメ・セゼールは、1950年の日付をもつ『植民地主義論』(1950年。砂野幸稔訳『帰郷ノート/植民地主義論』平凡社ライブラリー、2004年)の中で、「恐怖、劣等感、おびえ、屈従、絶望、下僕根性を巧みに植え付けられた何百万の人々」(同前、148頁)と呼びました。訪米中の菅首相の発言や表情、そして報道を見て、私の頭に真っ先に浮かんできたのが、セゼールのこの言葉でした。
 セゼールの『植民地主義論』は、ヨーロッパ文明が本質的に内包している植民地主義・人種主義の暴力を糾弾した書物ですが、アメリカに関して「私は、現在、西ヨーロッパの野蛮が信じられぬほど巨大なものになっていると考えていることを隠さない。確かにそれをはるかに凌ぐものがただひとつある。アメリカの野蛮である。」(153頁)として、次のように述べています。
 
 「恵まれない国々への援助を」とトルーマン(注―第二次大戦終了時のアメリカ大統領)は言う。「古き植民地主義の時代は過ぎ去った」、これもトルーマンだ。
 つまり、強大なアメリカ財界は世界のすべての植民地をぶんどる時が来たと判断しているということだ。だが、親愛なる友人たちよ、このことに気をつけたまえ!
 あなたがたの多くが、ヨーロッパに辟易し、あなたがたが証人となることを選ばなかった巨大な汚辱に辟易して、アメリカの方に目を向け―いや、ほんのわずかな人々にすぎないが―、そこに潜在的解放者を見る習慣を身につけていることを知っている。
 「ついている!」とその人々は考えている。
 「ブルドーザーだ!大規模な資本投下だ!道路だ!港湾だ!」と。
 「しかし、アメリカの人種主義は?」
 「そんなもの、植民地のヨーロッパ人種主義で十分に鍛えられているさ!」
 かくしてわれれは、いままさに巨大なヤンキー・リスクを冒そうとしているのである。
 だから、もう一度言う、気をつけたまえと。
 アメリカ支配、逃れることのできないただひとつの支配。まったく無傷では逃れられないという意味だ。(197―198頁)

 「自らの生命力に従がって活動するだけで、血の海を拡げ、死を撒き散らす粗暴な獣」(179頁)の姿をした、ヨーロッパの野蛮に勝る「アメリカの野蛮」は、イラクにおける石油資源と利権の確保を目的として仕掛けた無謀な戦争である1991年の湾岸戦争(約10万人以上の市民が死亡)、それに続く2003年―2011年のイラク戦争(50万人以上が死亡)、最近の黒人青年射殺事件、コロナ禍でのアジア系への差別を見てもわかるように、過去の話ではなく、今日もなお生き続けています。もちろん、以前にも紹介した「大阪のヘイトハラスメント裁判」からも明らかなように、「日本の野蛮」が存在している事実にも目を背けてはならないと思います。
 このような「アメリカの野蛮」を象徴している人種主義の問題を正面に据えたのが、スパイク・リー監督の映画「ブラック・クランズマン」(2018年)です。次回は、この映画を紹介して、「アメリカの野蛮」とそれに連なる「日本の野蛮」の乗り越えについて触れてみたいと思います。
 なお、冒頭の“憎しみに居場所なし”という言葉は、この映画のラストシーンに、2017年8月12日に米南部バージニア州シャーロッツビルで極右集会に抗議していて白人男性の車にはねられて死亡したヘザー・ハイヤーさんの写真と一緒に掲げられているメッセージです。




 底辺を生きている民衆への共感―『あらくれ』

 ゆめネットみえ通信
底辺を生きている民衆への共感―『あらくれ』
―中上健次と徳田秋声(3)―

 ひさしぶりに徳田秋声の小説『あらくれ』(1915年)を成瀬巳喜男監督が映画化した作品(主演・高峰秀子、東宝、1957年公開)のビデオを見ていたら、知人で2001年に死去した前川む一氏が「映画の『橋のない川』の監督の今井正は『ウマイ タダシ』、成瀬巳喜男は『ヤルセ ナキオ』と言われていた」と話していたのを思い出しました。前川さんは、小説『橋のない川』の作者・住井すゑが「私の内なる怒りと哀しみを理解してくれた私の数少ない戦友である」と評した人で、私は『部落解放識字作品集』その一、その二(部落解放同盟中央本部編、解放出版社、1984年、1985年)の編集スタッフとして掲載作品の選考に加わった時に知り合いました。 
 その前川さんの言葉どおり、成瀬作品は、ごく平凡な庶民の暮らしについての愚痴っぽい話を描いた「やるせない」ものが多く、映画評論家の佐藤忠男は「愚痴しか言えない凡庸な人々への愛と、それの表現の洗練においてきわだっている」(『日本映画史』2、岩波書店、1995年、266頁)と指摘しています。年齢を重ね、繰り返してきた過ちに苛まれることが多くなるにつけ、成瀬の作品にますます魅了されるようになっていますが、『あらくれ』の他にも、林芙美子の小説を映画化した『めし』『稲妻』『浮雲』『晩菊』(注1)などの成瀬の代表作といわれる作品を見直してみて、成瀬の「人間は愚かでいい、その愚かさこそ愛すべきである」という人間観(佐藤、前掲書、270頁)や「ストーリー性や虚構性をなるべく排除して、平凡な日常の生活の微妙な感情をえがこうとする」(広澤榮「成瀬巳喜男のしごと」(『講座 日本映画』6、岩波書店、1987年、241頁)という創作手法は、描かれている世界とともに、徳田秋声の文学と非常によく似ていると思いました。
 そうしたなかで、『あらくれ』は、「人に対する反抗と敵愾心のために絶えず弾力づけられていなければ居られないような」(徳田秋声『あらくれ』講談社文庫、185頁)性格のお島という女性を素材にしたことにより、秋声の作品ではひときわ異彩をはなっています。中上健次も「私が読む秋声は、何しろ自由だ。いきいきしている。たとえば、『あらくれ』の“お島”、こんなピチピチ跳ねる女、当今の小説家の誰が書けるか?」(「ジャズが聞こえてくる」『週刊プレイボーイ』1978年7月11日。『中上健次エッセイ撰集[青春・ボーダー篇]恒文社、2001年、113頁)と称賛した『あらくれ』のあらすじを、作品の中の言葉を一部引用しながら要約すると次のようなものです。

 作品の時代背景は、明治の末期から東京・上野公園で東京大正博覧会が開催された1914年(大正4)年頃のことです。
 お島の家は、昔は庄屋であり、父親は庭つくりとして「高貴の家」へ出入りしていた。お島が七つの時に、母親の残酷な折檻から逃がすために、父親が町の人達へ金を貸し付けたりして富裕になった家に養子に出した。お島が18の時、養父の甥にあたる作太郎との婚礼の話が一方的に決められたが、祝言当日に、「男前が好くな」く、「鈍くさい口の利き方、卑しげな奴隷根性」の作太郎を嫌っていたお島は、養家を飛び出し、実家に戻った。
 その後、植源という父親の仲間うちの世話で、神田の方で缶詰屋をしている鶴さんの後妻となった。鶴さんの浮気が続いたことなどで喧嘩が絶えず、一年弱で鶴さんと別れ、また実家にもどった。そして、植源で家事の手伝いや父親の仕事の手助けをしていたが、そうしたことに嫌気がさしていたお島は、商売の手助けにお島を連れに来た兄の話にのせられて、「みっちり働いて、お金を儲けて帰ろう。」と兄とともに山国の田舎町へ流れて行った。しかし、兄は商売に行き詰まり、お島は兄が借りた金の質に旅館・浜屋の女中として働くことになった。そこで肺病のために長い間生家へ妻を返している浜屋の若主人と恋愛関係になり、若主人はお島を妾にして関係を続けようとしたが、お島はこれを嫌い、再び東京にもどった。
 お島が父親の従妹にあたる独身の伯母の家に同居し、縫製の賃仕事の手助けをしていた時、出入りしていた小野田という裁縫師と出会い、「奴隷のような是迄の境界に、盲動と屈従を強いられ」るのではなく、「自分自身の心と力を打ち籠めて働けるよう仕事に取りつこう」と思い立ち、商売の資本を工面して、小野田と洋服屋をはじめた。その後、小野田と所帯を持ち、「血眼になって働いて来た」が、店の「遣り繰りが持ち切れなくなって」、他の土地へ移ったり、夫婦で洋服店などに住みこんだりして、店の再開をはかろうとした。ようやく本郷通りに店が持て、経営も景気づいてきたが、小野田に商才がなく、女癖が悪いことに嫌気がさし、保養に出かけていった温泉場から電話をかけて、気に行っている「裁の上手な若い職人」や小僧の順吉を呼び寄せ、「事によったら、上さんあの店を出て、この人に裁をやってもらって、独立(ひとりだち)でやるかも知れないよ。」と小野田と別れて独立することを打ち明けるところで、この作品は終わっている。
 
 お島のモデルについては、野口富士男氏が「その若い職人が秋聲の妻はまの実弟小澤武雄で、秋声がこの作品の素材を武雄の同棲者お島のモデル鈴木ちよから直接獲ている」(『徳田秋声伝』筑摩書房、1965年、405頁)と指摘しています。秋声自身は『あらくれ』について「『あらくれ』は初め『野獣の如く』という題で書きたいと思って居たのを、書く間際になって変えたのだ。(略)『あらくれ』は小野田に別れて、新しい男に密通(くっつ)かうとして居るところまで書いていないが、実際はあれからが面白い。例の気性で、自分一個で独立して事業を遣ろうとしては失敗してしまふ。その点を覘(ねら)って書こうとしたのだが、長くなったので止した。」(同前、404頁)と語っています。
 お島だけでなく、人生、自分の思い通りにいかず、失敗することの方が多いのは言うまでもありません。『あらくれ』に描かれているお島の生き方を見て、親鸞が「いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう」(『教行信証』)と語った私たち「凡夫」の姿そのものではないかと思いました。そして、数々の失敗にもかかわらず、もがきながら「野獣のごとく」はいあがろうとするお島から、「凡夫」の苦悩と悲哀をそこに感じました。それとともに、お島が激しく「あらくれ」るのが「家」や男からの服従の強制、男の裏切りであることを考えると、この作品は、配偶者の女性が夫のことを「主人」と呼ぶことが定着しているように、今日においてもまだまだ存続している「家父長制」への反抗と女性の自立の問題を見事に描き出したものと評価できます。
 秋声の作品には「政治性、思想性はきわめて薄弱である」(前掲『徳田秋声伝』319頁)と言われていますが、自己をおよび周辺の実在人物の実態を徹底的に凝視し、「あるがまま」にとらえるという「秋声の自然主義」(広津和郎)、「秋声リアリズム」(中上健次)によって、この作品は、たくまずして社会の矛盾とそれを生みだす構造、底辺社会を生きてきた民衆のエネルギーを客観的に掴み出したといえるでしょう。
 今、人種差別やいじめを批判したナイキの新しいCМ“動かしつづける。自分を。未来を。”に対して、「感動的」という意見の一方で、「日本を差別国家扱いしている。」「日本人が差別をしているように見える。」などの意見が寄せられ、議論になっていることが報じられています。私自身は、このCМから感銘を受けましたが、このような否定的な意見を見て、差別がいかに巧妙に隠蔽され、人々の意識に大きな影響を与えているかを改めて実感しました(注2)。中上健次は「秋声リアリズム、いや、野口リアリズムはまがいものが横行するこの時代を裂く。秋声リアリズムが、小説の世界の焦点になるのはこれからである。」(『週刊プレイボーイ』1978年7月4日。前掲[青春・ボーダー篇]112頁)と語っていますが、巧妙に隠蔽されている差別構造をあぶり出し、「まがいものが横行するこの時代を裂く」活動、言論が強く求められています。


(1) 人種差別の隠蔽の問題については、第3回目のブログ「大阪のヘイトハラスメント裁判(2)―新しい共同的な生を」で取りあげています。
(2) 野口富士男氏は、林芙美子の小説『晩菊』のヒロイン相沢きん(映画では杉村春子が演じた倉橋きん)のモデルが、秋声の長編小説「仮装人物」の副女主人公のモデルになった「柘植そよ」ではないかと推測しています(『徳田秋聲の文學』筑摩書房、1979年、330―331頁)。また、秋声の最後の長編小説『縮図』は、1953年に新藤兼人監督によって映画化され、「銀子」は乙羽信子が演じています。




 困難な立場にある人への視線―中上健次と徳田秋声(1)

 ゆめネットみえ通信
困難な立場にある人への視線―中上健次と徳田秋声(1)

危機の時代と「自然主義の精神」
 以前に私は、作家・中上健次に関して「開発と共同・共生―中上健次の闘い」(文芸誌『革』第28号、2018年2月)と「解放運動としての中上健次」(『革』第31号、2019年8月)という二つの評論を書いています。その時は知らなかったのですが、中上は、日本の近代文学を代表する作家の一人である徳田秋声を高く評価していました。エッセイ「自然主義の精神」(『週刊プレイボー1』 1978年7月4日。『中上健次エッセイ集[青春・ボーダー篇]』恒文社、2001年収録)では、15年の歳月をかけて『徳田秋聲伝』(筑摩書房、1965年)を著した小説家の野口富士男氏が書いた「なぜ秋声か」(『文体』3号、1978年3月)に衝撃を受けたとして、そこから次のような文章を引用しています。

 〈秋声文学への関心は、プロレタリア文学の危機、戦争の時代、対象をみうしなった文学の模索の時代と、いわば文学の危機に際して再燃する。そういう場合に、なぜ秋声か〉〈川端康成から中上健次に至る世代のなかには、川崎長太郎や武田麟太郎や徳永直のように精神の糧として秋声をえらびとった者もいれば、川端康成や林芙美子や和田芳恵のように技法を学んだ者もいる。彼らはなぜ鴎外や漱石や荷風や直哉ではなかったのか、そのへんに自己変革か自己打開の方策がころがっているかもしれない。どうやら、まだ秋声の文学は死んでいない。〉
 さらにつづけて中上は、「徳田秋声という文学の触媒作用」についての話を野口氏から直接聞いた時のことを、こう書いています。
 野口氏は秋声の文学の遺産として「あるがまま」と「時制」、いわば自然主義の精神と時制の自由という手法の二つをあげる。野口氏は、〈戦後派作家のなかで《徳田系》ないし《秋声の流れ》を汲んだ実作者はなかった〉とも指摘している。 
 野口氏の話を聴きながら、秋声は自分にとって何者だったのだろうかと思案が頭をかすめ、野口氏に小説家としての私は、谷崎潤一郎という物語の作家の出す毒を、徳田秋声という青く冷たい火花で解かしたのかもしれないと、考えを述べてみた。理屈で言うなら秋声リアリズムの効用である。その秋声リアリズムがいま、文学の流れの最先端で息をしはじめている。(略)
 秋声リアリズム、いや野口リアリズムがまがいものが横行するこの時代を裂く。秋声リアリズムが小説の世界の焦点になるのはこれからである。

 このように書いている中上は、このエッセイが発表された5カ月前の1978年2月5日に、地元の新宮市で開いた連続公開講座「開かれた豊かな文学」の「第一回講座 物と言葉」の最後で、「文学においては○○問題というのはない。つまり、被差別部落のなかに生きている人間が、こんなに豊かに、一生懸命、しっかり生きている、その姿を書く。それが文学だと思う。だから、文学において部落問題というのはない。ただ、文学において部落を書くということはあると思うんですよ。それは○○問題というのではなく、人間がこう生きている、それが被差別の状況にあるかもしれない。その状況にいる人間のもっと強い力みたいなもの、それを喋りたいし、書きたい。」(柄谷行人・渡部直己編『中上健次と熊野』太田出版、2000年)と語り、徳田秋声の新聞小説『あらくれ』を「徹底的に、さながらコンピュータにデータを入れるように、全部分析し」(『中上健次発言集成1』第三文明社、1995年)、実母をモデルにした『鳳仙花』(『東京新聞』朝刊、1979年4月―10月連載)の執筆に取りかかったのでした。
 この中上のエッセイを読んで、私は先のような野口氏や中上の指摘の意味をもっと深く知ってみたくなり、「野口氏は今年中に千枚ほどの批評集『徳田秋声の文学』を出すという。徳田秋声はそこでもっと明らかになる。」と紹介されている『徳田秋聲の文学』(筑摩書房、1979年)を取り寄せました。この本の冒頭で野口氏は、「戦後文壇における理論的指導者の代表的な一人であった平野謙の」『昭和文学の可能性』(岩波新書、1972年)の序章のなかに書かれている徳田秋声に対する評価を引用しています。少し長いですが、徳田秋声の人間認識や文学の特質を見事に表現していると思いますので、全文をそのまま引用します。

 《私ども凡人はみな調和もせず、破滅もしないで、虫けらのように生き、死んでゆくのである。その虫けらのような自然発生的な生きかた、死にかたに、もっと目的意識的な意味を見出すことはできないものか、と私なりに希求したとき、私は太平洋戦争末期に広津和郎が描いた徳田秋聲像にぶつかったのである。英雄、豪傑はいざ知らず、普通の人間はみな不完全なものだという平凡な認識、しかし、その不完全な人間と人間との組み合わせに、小林秀雄のいわゆる馬鹿は馬鹿なりに完全な世界が無限にひらけてくるというパッシヴな受容態度、そこに秋聲の作品世界の基調がある、と私がようやく自得したのは、昭和40年ころのことである。広津和朗が吸取り紙のような不思議な消化作用と呼んだ秋聲独特な受容力は、よほど人間の無明ということに思いをいたした人でなければ到達しがたい人間認識ではないかと、私は思うものだが、そういう私の理解のしかたは、広津和郎の描いた徳田秋聲像に負うところが多いのである。私が「調和もせず、破滅もせず」生きながらえることに積極的な意味を見出そうと思ったのも、そのころのことである。》
 「広津和郎の徳田秋聲像」は、広津氏が「徳田秋声論」(『八雲』第三輯、1944年。『広津和郎全集』第9巻、中央公論社、1974年に収録)の『縮図』について書いた次の文によく描かれています。
 作者はどの人物もとがめない。実際女を捨てる男、男を捨てる女さえとがめてはいない。超然として上から見おろすような立場からではなく、彼たち、彼女たちに即して踪(つ)いて行きながら、この世に生きる人間のいろいろの姿にうなづいているのである。それは思想の範疇や固定の道徳や、あらゆる観念、概念を捨てて、人間生活の諸相を長い間じかに見て来た事の帰結である。それは一切一衆の肯定であり、人間世界をそのまま救いに高めんとする慈悲である。この人生の『縮図』の上に瀰漫(びまん)している慈悲心の微光が、この作物をほのぼのとした美しさに包んでいるのである。

 私が徳田秋声の小説『縮図』や『あらくれ』を読んで想い浮かんだのも、自分自身の事として受けとめている親鸞の「私たちの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒りや憎しみ、そねみやねたみの心が絶え間なく起こり、命が終ろうとするその時まで、止まることなく、消えることもなく、絶えることもない」、「このような煩悩のすべてを一身にそなえている私たちは、聖なるものを求めていかなる修行に励もうと、迷いの世界から完全にぬけ出ることなどできるはずがない。弥陀は煩悩のそなわっているもののこのような事情を心底からからいそうに思われて、煩悩の燃えさかっているわれわれ衆生を救いとろうとする願をたてられたのだ」という言葉であり、徳田秋声という作家の魂に触れた平野、広津氏の文章とよく似た感想を持ちました。
 親鸞がこのような言葉を発したのは、「軽蔑されて、卑しめられ、警戒され、つまはじきにされ、しかもやはり他人のものを盗らなければ生きられず悪を重ね、そのために自分でも心にとがめて地獄おちを考え、自分をさいなむ人の数は、当時いよいよ多くなっていった」ことを目にして、「この人たち、多くの衆生こそ、救わなければならない」(野間宏『歎異抄』ちくま文庫、1986年)と考えたからでしたが、徳田秋声も市井の人びと、とりわれ困難な立場にある人たちと共にあり、その困難の重みに寄り添う生き方を貫いてきたからこそ、「作者はどの人物もとがめない。実際女を捨てる人、男を捨てる人さえとがめていない。超然として上から見おろすような立場からではなく、彼たち、彼女たちに即して踪いて行きながら、この世に生きる人間のいろいろの姿にうなずいている」のだと思います。野口氏が「秋声文学への関心は、プロレタリア文学の危機、戦争の時代、対象をみうしなった文学の模索事態と、いわば文学の危機に際して再燃する。」と述べ、中上が「秋声リアリズムがいま、文学の流れの最先端で息をしはじめている。」と語ったのも、徳田秋声の文学の底流にこのような精神が存在していることを読みとっていたからではないでしょうか。
 親鸞が生きた鎌倉期だけでなく、今日の社会においても、これまでのブログで取りあげた「大阪のヘイトハラスメント裁判」の在日韓国人の女性や、「関東大震災の虐殺事件と現在」の具志アンデルソン飛雄馬さんの実例を見ても分かるように、「軽蔑され、卑しめられ、警戒され、つまはじきにされ」ている人たちが依然として現存しています。しかも、コロナ危機によって孤独に埋没して衰退する社会の到来が予測される中で、そのような困難な立場にある人たちの問題の隠蔽・忘却が進んでいくことは間違いないと思われます。この残酷な現実に目をつむるなら、私たち自身の人間性も傷つくはずです。そのためにも、困難な立場にある人たちの中に身を置き、その人たちに深く畏敬の念を抱いた徳田秋声や中上健次の「自然主義の精神」を私自身が深く学び、それを言論と活動の中で示す必要があることを改めて痛感しました。




 人種主義の歴史的探求

 

ゆめネットみえ通信

人種主義の歴史的探求

 2015年4月、私は、立命館大学大学院先端総合学術研究科に入学しました(この一年後、体調を崩し、松阪から京都への通学が困難になったため、二年間の休学の後に自主退学)。そこでは、世界で読まれている名著『人種と歴史』の著者クロード・レヴィ=ストロースの研究者・渡部公三さん(19492017)の授業(ゼミや講義)を受けました。近代人種主義の成立についての渡辺さんの授業は、私にとって非常に刺激的であり、世界的な視野から部落差別問題を捉え直すための多くのヒントがありました。

 これまで、「大阪のヘイトハラスメント裁判」や宮崎芳彦遺稿『新・水平社運動史 19211924年』の批評で人種主義とそれに対する闘いを取りあげてきましたが、今回は、そのことと関連して、渡辺さんの授業から学んだことをふまえて、人種主義と部落差別の歴史的な探求をテーマにして書いた「帝国支配と部落差別」という5年前のレポートを掲載します。

 

帝国支配と部落差別

                            宮本 正人

 

1 はじめに

 1965年に内閣総理大臣へ提出された「同和対策審議会答申」(「同対審答申」)(1)は、「同和問題は、日本民族、日本国民のなかの身分的差別をうける少数集団の問題である」と記し、部落差別が封建遺制であり、日本固有の問題であるとした。この同対審答申の認識は、部落解放同盟の主張の多くが採りいれられたということもあって、その後の人権行政・人権教育の中で基本的な認識として位置づけられた。そして「部落史」研究においても、従来からの「国民史」のなかの「個別史」という枠組みの固定化がさらにはかられていく大きな要因の一つともなった。

 これに対して1990年にひろたまさき氏は、部落差別と他の差別との共通性や、「近代」や「国民国家」と差別の創出との関連等を解明する研究の必要性を提起した[ひろた1990]。それを受けて、黒川みどり氏は、人種主義(racism)を肌の色などにもとづく「人種」だけでなく、「文化的差異」も含めたものとしてとらえ、部落差別を人種主義として位置づける試みを行った[黒川2005]。人種問題に関して、酒井直樹氏は「国内に見出される人種問題は、国外にある国際的な秩序と切り離して理解することはできない」、「国外は国内に繰りこまれている」という重要な指摘を行っているが(酒井2008)、部落差別問題に関してもこうした視座が求められていることはいうまでもないだろう。したがって、本稿では、ひろた、黒川氏に代表される研究の流れをふまえつつ、国際的な秩序や世界的な連鎖との関連から、部落差別問題の成立と全国水平社の創立の意味に関しての問題提起を行いたい(2)。

 なお、このレポートは、本来必要とされる史料の十全な実証作業の多くを省いたきわめて簡潔なものである。

 

2 国際的な秩序としての人種主義・植民地主義

 日本が世界システムに参入された19世紀後半、西欧列強は本国の資本の投資先、安価な労働力やエネルギー源の供給先および国内の社会矛盾のはけ口の確保などで非ヨーロッパ世界の争奪戦を繰り返していた。そこでは建前であるとはいえ国民主権と人権尊重の原則が適用される本国と、差別と暴力にさらされ、国際法の保護が期待できない植民地という、根底から矛盾した二つの原理が併存していた[酒井2008、竹沢2005]。「人種平等」という普遍主義的な理念からすると、本来なら植民地に対しても人権尊重ということを適用されなくてはならないはずであった。しかし、植民地の現実はこうした普遍的な理念に対する裏切りを証明しており、そのために植民地支配を正当化する根拠が求められた。そこで動員されたのが西欧でつくりだされたさまざまな諸科学であり、なかでも、脳の容量をはかり、その小ささを根拠に黒人や有色人種の劣等性を「科学的」に証明しようとしたポール・ブロカに始まるフランスの「人種論的人類学」は、近代人種主義の成立に決定的な役割を果たした[渡辺1997、竹沢2005]。

 このような植民地における非人道的な差別・抑圧の根拠となった人種主義は、大英帝国の植民地インドで発見された指紋法が南アフリカを経て本国での人間の管理・統治の技法として整備されていったように[渡辺1996]、国民国家再編と国民形成にはげんでいた本国フランスへと還流されていった。植民地統治に絡んだ人種主義による「誰が人間なのか」という問いは、今度は「真の国民とは誰か」、「真の国民からなる国家を建設するには誰が排除されてなくてはならないか」というように本国の国民自身に向けられることになったのだった[竹沢2005]

 産業革命と政治革命によって生み出された帰属意識を持たない「群衆」は、こうして人種主義によってナショナリズムに包摂されていった。やがてそれは、「『誰か他の人の立場に立って考える能力』が不足した思考停止的な人間」[ハンナ・アーレント1969]の量産につながっていったが、そのことはまた、一人ひとりが独自な存在である人間を、「戦争機械」としての「国民国家」のために利用できる資源(兵士、労働力等)とみる見方が拡大していったことを意味していた。〈ネグリチュード〉を提唱したフランスの植民地マルティニックの詩人・政治家のエメ・セゼールが1950年に指摘したように、「土着の人々に対する侮辱にもとづき、その侮辱によって正当化される植民活動、植民地事業、植民地征服というものは、それを企てる者自身を不可避的に変容」させていったのだった[エメ・セゼール2004]。その後、人種主義は、1889年にパリで行われた万国博覧会や植民地博覧会などの「帝国の展示」で、フランスを経由してヨーロッパ諸国へと広がっていった。

このようにして、19世紀後半、植民地主義・人種主義は、本国と植民地との相互作用のもとに国際的な秩序として確立されていった。そして、この国際的な秩序は、後発の帝国である日本を含め、地域的な差異を超えて同時代的に世界各地で導入が進められていくことになった。

 

3 人種主義の学習・模倣と移植

 成立したばかりの明治政府は、欧米列強の植民地とならないために、国際的な秩序である植民地主義・人種主義を忠実に学習・模倣し、移植していった。明治維新の翌年の1869年には、和人によって蝦夷島と呼ばれていたアイヌモシリを「北海道」と改称し、日本の領土として強制的に編入した。ついで1879年には、軍事力を背景に琉球王国を併合して沖縄県とした(「琉球処分」)。その際、「日本人」「日本民族」の自己画定のために、先住民族アイヌを「野蛮」「劣等」というレッテルをはりつけ取り出してから同化の対象とした。沖縄においても同様で、「言葉を先頭に、風俗・信仰・姓名等『琉球』は異風として焙り出され、拭い去られようと」した[鹿野1997]。その後、日清戦争の翌年の1895年には植民地台湾を獲得し、さらに日露戦争の5年後の1910年には大韓帝国を併合して日本の植民地支配下に置き、帝国の版図のさらなる拡大をはかっていった。その後、台湾や朝鮮支配に満足せず、自国への「脅威」を掲げ、中国への勢力拡張と日中戦争に邁進していった。

 ところで、こうしたアイヌ、沖縄、台湾に対する植民地主義・人種主義の実践を正当化する「材料」を提供したのが、西欧と同じく、日本においても人類学であった。「人種論的人類学」の影響を受けた日本の人類学者たちはアイヌの頭蓋骨の発掘や身体計測等の調査を行い、アイヌが野蛮で文明に遅れていることを報告したが、そのことは沖縄や台湾の先住民の紹介の仕方においても同じであった[ひろた2008]。そして、1903年には、日本の人類学の祖・坪井正五郎が1889年のパリ万国博覧会を模倣して発案した第5回内国博覧会の「学術人類館」において、アイヌ、沖縄、台湾の先住民「生蕃」は、「帝国主義の祭典」を飾る「異人種」「異文化」の「陳列品」として並べられたのであった[黒川、藤野2015]。

 このような周辺部の植民地化と同時並行して、「世紀転換期の日本の地方は国内植民地論の検証の場としてふさわしい条件をそなえていた」と指摘されているように[西川1999]、いわゆる「内地」でも、廃藩置県や神仏分離令の後も、地域そのものが持っていた自治権や文化への弾圧と中央への統合が進められていた。1880年に自由民権運動を理論的にリードしていた高知の植木枝盛が「徳川政府はたおれて我が明治政府新たに政を為ることになりても、廃藩の頃よりは頻りに権力の中央に聚まることとなり、地方には権もなく力も無きことに至り、人々競うて東京江戸に趨き、首府は益々盛んに、地方は愈愈衰へ、随って財貨も地方を辞して京地に流れ込むの勢いとなれり。故に此勢は今尚盛んに行われ、地方は日々に貧弱に傾けり。豈に哀しむ可きに非ずや」(「交際の平均」『大阪日報』1880年9月2日)と説いたように、中央集権を推進する明治政府によって富国強兵・軍備増強のために地方の富や力が吸い上げられ、あらゆる地方が植民地化されていった。

 そうした中で、「内地」においても「異民族」「異文化」として規定する対象が[発見]されることになった。すなわち、「内地」の人びとの国民化=文明化をはかるために、「全国に散在」していた旧エタ身分の人たちとその集落が「異民族」「異文化」として規定されたのだった。たとえば、三重県松阪では、1888年の町村合併の時に、旧エタ身分の人たちが住む村だけが「人情・風俗」の差異を理由に取り出され、政策的に一村が形成された[松阪市1983]。そして、1905年には全国に先駆けて三重県知事有松英義のもとで行われた部落改善政策のための調査報告書では、「特種部落」という呼称が用いられ、人種の違い、言語の違い、犯罪の温床、怠惰、残忍、衛生観念の欠如、生殖器官の違いなどの「人種的・言語的・文化的・生物的差異」がことさら強調された[三重県厚生会1974。黒川2003]。そして、部落改善政策の中で示された「野蛮な存在」「特種な存在」とする見方や「特種部落」という呼称は、内務省によって同様の政策が他府県においても行われたことにより全国的に広がっていった。

 1904年に内務省警保局長から三重県知事に転出した有松が部落問題に着目するにいたったのは、「統計の上に於いて比較的此部落に犯罪者の多きが為」(『牟婁新報』1906年10月27日)とあるように犯罪防止の観点からで、そのことは三重県での部落改善政策が警察官主導で遂行されたことに顕著に示されていた[黒川2003]。その後、知事を辞めてふたたび警保局長にもどった有松は、1910年の大逆事件の捜査の陣頭指揮にあたった。この時、大審院検事局次席検事(兼司法省民刑局長)として、その審理において中心的な役割を果たしたのが、有松と同じ岡山県出身の平沼騏一郎であった。

 1908年の指紋法の導入の推進役であった平沼は、全国水平社創立後の1925年に内務省社会局内に設置された中央融和事業協会の会長に就任した[渡辺2000]。中央融和事業協会は、全国水平社に対抗して設けられたもので、戦前を通じて融和事業の連絡統制機関の役割を果たしたが、翼賛体制のもとで同和奉公会に改称した戦時下では、部落の「人的資源」を国策に応じて供出する「資源調整事業」(具体的には戦争に必要な産業への転業と「満州」移民)を推進した[黒川2011]。

指紋法、部落改善政策、大逆事件、中央融和事業協会とつづく平沼らの軌跡の背後から浮かびあがってくるのは、「全国水平社創立大会記」で部落改善政策に関して「彼等は民族自決の乱打する黎明の鐘に恐れ戦いた。スワ国家の一大事と苦慮した。政府当局もいくらか考ふる所があったか特殊部落改善政策を始めた」と指摘されているように(『水平』1922年7月)、植民地体制に反対する民族主義への脅えであった。

 大逆事件で最も多くの犠牲者を出した和歌山県新宮市出身の文学者・中上健次は「大逆事件は、時の官憲のデッチあげてやる。デッチあげをやる人間が、大逆という汚名を着せるには、日本というあるべき国の在るべき姿を思い描くことが必要であった。一つの理念である。その理念に真っ向から対立するのが、大石誠之助を中心とした紀州新宮のグループ、いや、紀州というもう一つの国の理念である」と指摘しているが[中上1977]、その理念こそ、「国民国家の統治原理は植民地主義である」ということであった[西川2009]。そして、帝国的国民主義の担い手であった平沼や有松らは、植民地住民や内地の少数者、共産主義者や無政府主義者、移動する人びと、犯罪者等々の「叛乱」の予感に脅え(3)、その理念を守るためにさまざま取り組みを行ったのだった[酒井2008]。

 ところで、先に見たように「文明が形成され維持されるためには、自己の外部のみならず内部においても野蛮の存在が必要」であり[西川2006]、その内部における「野蛮の存在」として[発明/捏造]されたのが「特種部落」であった。そして、そのことに大きな役割を果したのが、ここでも「人種論的人類学」であった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、人類学者・考古学者の鳥居龍蔵は、ポール・ブロカによって開発された頭蓋計測や身体特徴の計測の手法を用いて、旧エタ身分の人たちの人類学調査を精力的に行った。それらの計測の結果、旧エタ身分の人たちは、台湾の先住民「生蕃」と同系統のマレー系の人種であり、現在にまで固有な文化や遺伝形質を伝える人種集団と位置づけた[関口2011]。この鳥居の調査や前述した各地の部落改善政策の報告は新聞に掲載されて大きな反響を呼び、旧エタ身分の人たちを「異民族」「野蛮」「特種」という見方が民衆の間に定着していった。こうして、江戸時代の「賤民」に対する差別は、国民国家の形成が進むなかで、部落差別に姿を変え、今日まで存続する被差別部落(以下、部落)が誕生した。ここに、西欧の人種主義を学習・模倣・移植した部落差別、すなわち前近代の身分差別に近代人種主義を接ぎ木した部落差別が、天皇制の確立と密接に結びついて成立したのだった。

 天皇制が国民統合の中心にすえられたことに関しては、西川長夫氏が「西欧的な宗教を欠くわが国において一国の独立を危うくしかねないキリスト教を拒否するとすれば、それに代わるものとしては天皇制しかありえない」と考えるべきであり、天皇制は「モジュールとして移植された国民国家最大の難点の克服であり、まさしく日本型国民国家の創出[発明]であった」と指摘している[西川1995]。

日本における「穢れ」の文化の歴史をふまえて創出[発明]された天皇制は、天皇の対極となる存在を必要としていた[柴谷1991]。そこで近代において[再発見]されたのが旧エタ身分の人たちであり、国策としての部落改善政策を通じて「特種部落」が[発明/捏造]された。そして部落差別は、三重県の部落民の貧窮と不潔を台湾の先住民「生蕃」になぞらえて留岡幸助が非難したように、大日本帝国の植民地支配が拡大していくことによって、さらに増幅されていったのだった[ひろた2000]。

 政治哲学者のハンナ・アーレントは、19世紀末における「宗教的なユダヤ人憎悪とは異なる反ユダヤ主義(反セム主義、アンティセミニズム)が社会や政治の同時代的な問題状況と平行して現れた。(略)帝国主義となっていく段階で激化したということが鍵となる」と指摘しているが[ハンナ・アーレント1972−1974、矢野2014]、部落差別に関してもこれと同様のことが言えるであろう。すなわち、部落改善政策が展開された20世紀初頭は、日露戦争の勝利にともなって日本の植民地支配が拡大し、「一等国民」としての意識が高揚していた。「『一等国民』として国際世界に対等に扱われるためには、国民のなかに一人前ではない、なり損ないの日本人を必要とした」[酒井2008]。これらの「なり損ないの日本人」は「形式的には日本人であったが、人種差別の対象とされた人々」であり、アイヌや沖縄人と同様に、部落民もまた、「一等国民」としての自己画定のための「内地」における「なり損ないの日本人」として位置づけられたのであった。

 しかし、「[発明/捏造]されたものは何であれ解体可能であることを忘れてはならないし、私たちが向きあうべき一番大切な問いとは、その場所で次に何を創造するのかということ」であり[ロビン・D・G・ケリー2007]、そのために「起きて見ろー夜明けだ」(水平社創立趣意書「よき日の為に」)という呼びかけの下に水平社創立の準備が進められた。

 

4 頽廃と堕落の中から

 先の三重県の部落改善政策のための調査報告書には、通常人間以外に用いる「繁殖」という言葉も使われ、旧エタ身分の人たちが「獣」に近い存在として描かれていた[三重県厚生会1974。黒川2003]。エメ・セゼールは「植民地化する者は、自らの免罪符を与えるために、相手の内に獣を見る習慣を身につけ、相手を『獣として』 扱う訓練を積み、客観的には自ら獣に変貌していくのだということを証明している。示す必要があったのは、植民地化のこうした作用、この反動化の衝撃である」と語っているが[エメ・セゼール2004]、同じ人間である被差別部落の人たちを「獣」のように扱うことで、他者の心に対する「共感的想像力」を喪失し、「彼ら自身が獣になっていった」のだった(4)。

韓国併合と同時生起した大逆事件の犠牲になった幸徳秋水は、日露戦争に際して書いた「兵士を送る」という論稿で「諸君は今や人を殺さんが為に行く、否ざれば人に殺されんが為に行く。吾人は知る、是れ実に諸君の希う所にあらざることを、然れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械なり」(『平民新聞』第14号、1904年2月)と指摘したが、帝国日本の対外侵略が本格化するこの時期に、「戦争機械」であった国民国家に「ふさわしい存在」=「自動機械」に民衆は変身させられようとしたのだった[西川2000]。

 そうしたことからすると、部落とは、民衆を「国家にふさわしい存在」である「国民」に変身させるための装置の一つとして創出されたといえるだろう。こうして誕生した「国民」は、「その品性を堕落させ、もろもろの隠れた本能を、貪欲を、暴力を、人種的憎悪を、倫理的二面性を呼び覚ま」され、また、「国民」を生み出し育てるために創出された部落民も、同化政策である部落改善政策によって、「恐怖、劣等感、おびえ、屈従、絶望、下僕根性を巧みに植え付けられた」のだった[エメ・セゼール2004]。

 このように、部落改善政策による植民地主義・人種主義の実践は、差別される者、差別する者の双方の頽廃と堕落を招いたが、その暗い闇の中から全国水平社は起ちあがってきた。全国水平社創立のメンバーの一人、平野小剣は、創立の前年の1921年2月3日に帝国公道会の主催によって開かれた第2回同情融和大会の会場において、部落民を「民族」と規定した「檄文」を「民族自決団」の名でまいた。その冒頭には「我ら民族の祖先は最も大なる自由と平等の滑仰者であり、又実行者であった。そして最も偉大なる殉教者であった。我等はその祖先の血を享けた民族である。今や世界の大勢は民族自決の暁鐘を乱打しつつあり、我等は茲に蹶然起って封建的社会組織の専制化より我々民族の絶対的『力』を俟って、我が民族の解放を企画しなければならぬ」と書かれていた。

 そして「全国水平社創立大会記」に「欧州戦乱の産物として世界の一角から乱打された民族自決の暁鐘は、吾々民族に強い刺激を与えた。黎明を告ぐる鐘の音が吾々民族の耳朶に響いた秋、民族中の有識者は双手を挙げて踊り狂った。千有余年の間の屈従の奴隷生活から脱する秋は来たれりと密かに喜んだ。民族の血潮は躍動した。そして澎湃たる思想の潮流は青年をして浸せしめ」と記されているように(『水平』1922年7月)、国際政治への鋭い感受性を持った青年たちによって、1922年3月3日、全国水平社は創立された。1923年11月に結成された全国水平社青年同盟を理論的に指導した高橋貞樹も「世界人口の4分の3は殖民地ないし半殖民地の状態にある。そしてこれらの奴隷化の地位に置かれた13億の民の不遇に心を痛むるものは、吾が国に古代奴隷を髣髴たる300万同胞の存在することを忘れてはならぬ」と、部落の状況と「殖民地ないし半植民地の状態」とを重ねてとらえていた[高橋1923]。

 1917年のロシア革命、第一次世界大戦後の民族自決論の提唱、1919年に日本政府がパリ講和会議に提案した人種差別撤廃条案は、植民地化された地域・人々に大きな影響を与えた。パリ講和会議のさなか、第1回のパン・アフリカ会議が同地で開かれた。それを組織したアメリカの黒人解放運動の指導者・WEB・デュボイスは、合衆国の黒人差別を先進資本主義国による全世界的な有色人種抑圧の一環としてとらえ、合衆国の黒人の運動を世界中の有色人種の闘争の中に位置づけていた[竹本2012]。インドにおいてはイギリスの植民地支配に対して、ガンディーが非暴力・不服従運動を開始し、東アジアでは、1919年、日本に併合された朝鮮で3.1独立運動が、中国では5.4運動が起きた。日本でも植民地主義・人種主義の暴力に晒されていた部落民・平野小剣が人種差別撤廃と民族自決にいち早く反応して先の「民族自決団檄」をまき、そして全国水平社が創立された。さらに1923年には、アイヌ民族が誇りを取り戻し、その世界観を広く世に伝える出発点となった知里幸恵『アイヌ神謡集』が出版された(5)。

 このように1910年代から20年代は反植民地主義・反人種主義の闘いが世界的に高揚していたが、その一方でヨーロッパでは進駐軍としてドイツに投入されたアフリカ兵に対する差別が広まり、1920年末にはアメリカにおいてはク―=クルックス=クランが急激に台頭していた[渡辺1997]。日本でも全国水平社が結成された翌年の1923年3月に奈良県で差別発言に対する謝罪をめぐって全国水平社1000人と大日本国粋会1000人とが対峙し衝突した事件(水国争闘事件)があり、9月には関東大震災における朝鮮人虐殺があった。1926年1月には、三重県木本町(現熊野市)でトンネル建設工事に来ていた朝鮮人労働者に対する地元の在郷軍人を中心とした住民による虐殺事件(木本事件)が起きた。植民地台湾においても「日本の1910年代〜20年代の『デモクラシー』(インペリアル・デモクラシー)の時代は、日本人による台湾原住民殺戮の時代であった」[金1996]。

 こうした世界的な現象について、「集団的ヒステリーなどというものてばなく、人種対立の暴力性の発現の世界的な同時性として考えなければならないのではないだろうか」と指摘されているように[渡辺1997]、1910年代から20年代は、植民地主義・人種主義を延命させようとする動きとそれを廃絶しようとする動きとの対立が世界的に激化していく歴史的な転回点であったといえよう。

このような世界的な連鎖の中から、植民地主義・人種主義に反対する「東アジア革命」[テッサ・モーリス・スズキ2008]の一環として、全国水平社は結成されたのだった。その創立大会の「宣言」では「過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた我等の為の運動が、何等の有難い効果を齎さなかった事実は、夫等のすべてが我々によって他の人々によって毎に人間を冒涜されていた罰であったのだ。そして、これ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させたことを想えば、此際我等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起こせるは寧ろ必然である」と、部落改善政策によってもたらされた「堕落」を根底から批判し、その「堕落」を救うために全国水平社が結成されたことを強く訴えていた。

 「宣言」には本文605字中に「人間」という言葉が10回も使われていたが、その最後は「人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦わる事が何であるかをよく知っている吾々は、心から人世の熱と光を願求礼讃するものである。水平社はかくして生まれた。人の世に熱あれ、人間にあれ」という有名な言葉で結ばれていた。「宣言」の中の「人間」という言葉は、一般的なヒューマニズムから出たものというより、部落差別によって大きな苦悩にさいなまれ続けた体験に根ざした他者の心への「共感的想像力」と人間解放に対する激しい欲求からから出たものであった。その意味で、「宣言」は、よく言われるようなフラン人権宣言や世界人権宣言に匹敵するものというより(6)、植民地主義・人種主義によって民族や国民から排除された当事者たちによる「人間解放宣言」の先駆けであり、第三世界の闘いがめざしたものを象徴した言葉である「真の問題は人間を解き放つことだ」[フランツ・ファノン1969]や、アフリカ系アメリカ人の闘いのスローガンであった「ブラック・イズ・ビューティフル」へとつながっていくものであったと思う。

 こうして水平社は、その「綱領」に「我等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向って突進す」と記したように、非人間化された自分自身を、そして植民地主義・差別主義を内面化させられた「国民」を、解き放つ闘いへと歩み出していったのであった。その先には外部からの策謀・介入・弾圧、それらと絡みついた同志間の対立や権力闘争という困難な状況があり、そして「なり損ないの日本人・国民」という位置が強いた「一人前の国民として認められたい」という願望ゆえに、「愛国者」「帝国的国民主義者」へ編成されるという大きな罠が国家によって仕掛けられていた(7)。

 全国水平社の創立者たちが思い描いた当初の巨大な目標は、金静美氏がきびしく批判したように、戦時下の侵略戦争への協力と民族差別への加担、オール・ロマンス闘争に象徴されるような戦後における国民主義的な運動の継続など[金1994]、自らの弱さや権力の策謀に屈して道半ばで方向を誤って破綻していったと言えるかもしれない。だが、世界が叶えたことのない理想の実現をめざした「志」は、決して消え去ってしまうことはなく、戦後における狭山闘争、識字運動などの文化運動の中に生き続けると共に[西岡2007、日野1979]、さまざまな境界を超えて継承されていた。

 「障害者」解放運動をリードしてきた一人である牧口一二氏(特定非営利活動法人ゆめ風基金代表理事)は、私との聞き取りで、全国水平社創立大会の「宣言」との出会いについて、「弱い立場のものが力を持つというのは大変なこと。口で言うほど簡単なことではない。水平社宣言で『人間に光あれ』と、弱い立場に置かれた中から、これだけの力を持つ言葉を持った。そのことにものすごく感動した」と語っている。こうした出会いを通して、牧口氏は「ちがうことこそ、ええこっちゃ」という主張を展開し、「(人間の心は)人と人との間に生まれる。人と人との間だけじゃない。動物の間にも、植物との間にも、そう、道端の小石との間にも心は生まれ出る。だから、『人間』って言うんだろうね」と[牧口1995]、世界の希望のために人間解放を求めて闘った人たちと同じように、複数の人間が多様な価値を持ちながら共存し、地球規模で相互に依存しあいながら生きているということを主張したのだった(8)。

 今日、海外で武力行使をするための「国防軍」の創設と安全保障関連法案の成立の動きが、原発の再稼働と輸出の推進と絡みながら強硬に進められている。また、そうした状況と結びついて、ヘイト・スピーチも激化している。このような植民地主義・人種主義の継続のもと、2015年7月10日、国会前で安全保障関連法案に反対する抗議行動が行われた。その中で、一人の女子大生が「人の痛みに無自覚で、思考停止する人間になりたくない。だから声を上げる」と宣言し、参加者から歓声が上がった(『中日新聞』2015年7月12日)。深刻化する「人間の無用化」に対する闘いは、地域や年代を超えて拡がり始めているのである。

 

 

(1)今年(2015年)が50年目にあたる同対審答申(正式には「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策」に対する答申)は、その後の同和行政の基本的指針たる役割を果たし、現在も、政府、地方公共団体はもちろん運動団体も積極的評価を与えている[部落解放・人権研究所編『部落問題・人権事典』解放出版社、2001年]。しかし、同対審答申の本質は、部落の状況を「原始社会の粗野と文明社会の悲惨さをかねそなえた地区」ととらえ、「文明化」「近代化」によってその問題の「解決」をはかろうとした同化政策であった。その意味で、同対審答申は、同年に締結された日韓基本条約、1963年5月に起きた冤罪事件である狭山事件と同じく、高度経済成長下の「国民」の再編の問題としてとらえていく必要があると思う。また、1964年に合衆国で制定された公民権法には「運動を共産主義の影響から切り離しておく」という意味が隠されていたが[竹本2001年]、同対審答申やその具体化のために制定された同和対策事業特別措置法(1969年)に関しても、「自民党政府もこの底辺の最もぶきみな力をもつ集団を管理し、堕落させる方法として、あの同和対策事業というものを許容してきたのではないかと、私は考えてきました。同和対策事業特別措置法、地域改善対策特別措置法の中にある自民党側の政治的読みというものも、私は現代革命の問題と関係があると思います」と指摘されている[色川1983]。同対審答申や同和対策事業特別措置法は、1950年代後半から60年にかけて勤評闘争、安保闘争、三池闘争を積極的に闘った部落解放同盟を国家に回収することをねらったものであったといえよう。

(2)「部落史研究」をはじめとする差別史研究者の姿勢の問題に関して、部落解放運動が内包しつづけてきた民族差別の問題を精緻な実証作業によってきびしく批判した金静美氏は、その批判は部落解放同盟や、そのことをそれまで明瞭に指摘しなかった研究者(日本人全)に向けられたものであるとともに、日本人の民族差別にたいする批判であったことを明らかにしている[金1994]。しかし、この批判をうけた研究者たちや部落解放運動にかかわった人たちについて、「その後も、かれらのほとんどはいつわりをつづけるだけでなく、なかには秋定嘉和のように、わたしの全国水平社にたいする『イメージ』や『期待』について空言をいいだすものもいる」と指摘しているように[金1996]、かれらの反応は明瞭ではなく歯切れの悪いものであった。西川長夫氏は植民地問題研究について「植民地問題の研究ほど研究者の立場を明確にさらけ出し、明確に示すことが要請される研究は少ないと思います。(略)自分の立ち位置を反省することなく、実証

 的な研究成果を積み上げて満足している幸せな研究者を見ると、どう対応してよいのか困ってしまいます。あるいは逆に、自己の内なる植民地主義に目をつむって、植民地主義の不正と加害性を叫びたてる、正義の味方的な研究者の存在をどう考えればよいのでしょうか」と発言している[西川2013]。自己解放・人間解放という動機を欠落させた「部落史研究」についても同様のことが言えると思う。

(3)宿谷晃弘氏は、平沼の「このような国体論のもとでは、ユダヤ思想、共産主義は、もっとも恐るべき敵である。なぜなら、国体それ自体に対する攻撃を目論むものであるからである。この反ユダヤ思想とでも呼ぶべきものは、平沼だけでなく、留岡も含めた様々な人たちによって共有されていた」と指摘している[宿谷2013]。ここに挙げられている「留岡」とは、内務省嘱託として部落改善政策を指導した明治大正の社会事業家・留岡幸助のことである。その意味で、部落改善政策(のちの中央融和事業協会も)は、「叛乱」の元凶と見なしていた部落を「国民化」することで、先手を打ってその芽を摘み取ってしまうということをねらったものであった。

(4)この問題について、南アフリカ出身の文学者JМ・クッツエーは、小説『動物のいのち』の登場人物である作家・エリザベス・コステロに「同じ人間、神の似姿として創られた人間を、動物のように扱うことで、彼ら自身が野獣になっていったのです」、「他の存在の立場になって考えてみられる範囲に限界はありません。共感的想像力に限界はないのです」と語らせている[JМ・クッツエー2003]。

(5)「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」という「梟の神の自ら歌った謡」ではじまる『アイヌ神謡集』は、「一木一草に歴史が存在し、熊や鮭や花や星が歴史を語り、海川や岩石が歴史を保存するような」アイヌの世界観を代表するものである[本橋2005]。後述する「障害者」解放運動の牧口一二氏の提起とも共通する植民地主義が排除した世界観・人間観を学ぶことが、3.11を経験した私たちに強く求められているといえよう。

(6)西川祐子氏は、フランスの人権宣言(1789年)は「男性の権利宣言」であり、人権宣言とそのパロディとして執筆された女権宣言(1791)とを比較対照して読むことによって、「人間・市民・国民の理念がどのようにして女性の不在のまま創られ、女性が何を要求したかを見ることができる」と指摘している[西川2000]。

(7)「なり損ないの日本人・国民」と規定されたがゆえに、「日本国民」であることを証明するために、「愛国者」として満州侵略への加担などの植民地支配の加害者になっていった問題については、かつて三重県水平社の指導者であった上田音市を取り上げて考察した[宮本2002、2012]。

(8)周知のようにハンナ・アーレントは、「人間の複数性、人間の無数の差異性」、「人間による人間の無用化」の問題について生涯をかけて追及した[ハンナ・アーレント19721974]。

 

 

【参考文献】

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金静美『水平運動史研究【民族差別批判】』現代企画室、1994年。

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黒川みどり「人種主義と部落差別」(竹沢泰子編『人種概念の普遍性を問う 西洋的パラダイムを超えて』人文書院、2005年)。

黒川みどり『近代部落史 明治から現代まで』平凡社新書、2011年。

黒川みどり・藤野豊『差別の日本近現代史 包摂と排除のはざまで』岩波書店、2015年。

酒井直樹『希望と憲法 日本国憲法の発話主体と応答』以文社、2008年。

JМ・クッツェ(森祐希子・尾関周二訳)『動物のいのち』大月書店、2003年。

柴谷篤弘『科学批判から差別批判へ』明石書店、1991年。

宿谷晃弘「大日本帝国の刑罰思想における『内部』と「外部」:刑事思想史ノト」(『東京学芸大学紀要 人文社会科学系U』第64集、2013年1月)。

関口寛「20世紀初頭におけるアカデミズムと部落問題認識鳥居龍蔵の日本人種論と被差別部落民調査の検討から」『社会科学』第41巻第1号、2011年5月。

高橋貞樹「特殊部落の歴史と水平運動」(沖浦和光編『思想の海へ18 水平=人の世に光あれ』社会評論社、1991年)。

竹沢尚一郎「人種/国民/帝国主義19世紀フランスにおける人種主義人類学の展開とその批判」『国立民族学博物館研究報告』30()、2005年。

竹本友子「WEB・デュボイスと第二次大戦後の公民権運動」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』46、2001年。

竹本友子「WEB・デュボイスとパン・アフリカニズム」『早稲田大学大学院研究科紀要』第4分冊、2012年。

テッサ・モーリス・スズキ「朝鮮半島が決める東アジアの構造」『朝日新聞』2008年2月26日。

中上健次「私の中の日本人大石誠之助」(『波』1977年4月号。のち『中上健次エッセイ撰集[青春・ボーダー篇]』恒文社、2001年所収)。

西岡智『荊冠の志操 西岡智が語る部落解放運動私記』つげ書房新社、2007年。

西川長夫「日本型国民国家の形成比較史的観点からへ」(西川長夫・松宮秀治編『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』新曜社、1995年)。

西川長夫「戦後歴史学と国民国家論」(歴史学研究会編『戦後歴史学再考』青木書店、2000年)。

西川長夫『〈新〉植民地主義論』平凡社,2006年。

西川長夫「いまなぜ植民地主義が問われるのかー植民地主義論を深めるために」(西川長夫・高橋秀寿編『グローバリゼーションと植民地主義』人文書院、2009年)。

西川長夫『植民地主義の時代を生きて』平凡社、2013年。

西川祐子『近代国家と家族モデル』吉川弘文館、2000年。

ハンナ・アーレント(大久保和郎訳)『イェルサレムのアイヒマン 悪の凡庸さについての報告』みすず書房、1969年。

同 『全体主義の起源』全3巻、みすず書房、1972−1974年。

日野範之『ジャムナ河の聲』境涯準備社、1979年。

ひろたまさき「解説 日本近代社会の差別構造」(『日本思想体系22 差別の諸相』岩波書店、1990年)。

ひろたまさき「差別は近代の産物」『部落解放』第470号、2000年6月号。

ひろたまさき『差別からみる日本の歴史』解放出版社、2008年。

フランツ・ファノン(海老坂武・加藤晴久訳)『黒い皮膚・白い仮面』みすず書房、1970年。

牧口一二『何が不自由でどちらが自由か』(河合ブックレット)河合文化教育研究所、1995年。

松阪市『松阪市史』第15巻〈史料編・近代(2)〉勁草書房、1983年。

三重県厚生会編『三重県部落史料集』近代篇、三一書房、1974年。

宮本正人「戦前・戦中の三重松阪と上田音市」(秋定嘉和・朝治武編『近代日本と水平社』解放出版社、2002年)。

宮本正人「三重松阪の都市部落が経験した近代」『部落解放研究』No.194、2012年3月。

本橋哲也『ポストコロニアリズム』岩波書店、2005年。

矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中公新書、2014年。

ロビン・D・G・ケリ(村田勝行・阿部小涼訳)『ゲットーを捏造するーアメリカにおける都市危機の表象』渓流社、2007年。

渡辺公三「指紋と国家 管理と差別の交差する場所」(栗原彬編『講座差別の社会学』第2巻、弘文社、1996年。のち渡辺公三『司法的同一性の誕生市民社会における個体識別と登録』言叢社、2003年所収)。

渡辺公三「帝国と人種植民地支配のなかの人類知」(栗原彬編『講座差別の社会学』第3巻、弘文社、1997年。のち、前掲書所収)。

渡辺公三「『個人識別法の新紀元』−日本における指紋法導入の文脈」(『立命館国際研究』12−3、2000年3月。のち、前掲書所収)。



 大阪のヘイトハラスメント裁判(2)―新しい共同的な生を

 ゆめネットみえ通信(宮本正人ブログ)
大阪のヘイトハラスメント裁判(2)―新しい共同的な生を
 前回は、大阪のヘイトハラスメント裁判から、人間の尊厳を示すことで差別や不正義と闘うことの意義について書きましたが、今回は、「フジ住宅」(一部上場企業で社員・パート職員合わせて約1000人)と会長による配布文書の差別性や大阪地裁の差別に対する認識の問題について取りあげてみたいと思います。

「帝国意識」の継続
 差別という言葉は、日常語として広く使われていますが、差別の定義づけや概念規定も論者の視点・視座によって異なり、さまざま定義が試みられています。ここでは、長年にわたって差別問題を研究してきた社会学者の野口道彦・大阪市立大学名誉教授の「差別」「差別意識」の「定義」(部落解放・人権研究所編『部落問題・人権事典』解放出版社、2001年、386―387頁)に基づいて、「フジ住宅」と会長による配布文書の差別性の問題を考えてみます。
この裁判の提訴及び判決を報じた『朝日新聞』の記事や大阪地方裁判所堺支部(以下、大阪地裁と略す)の判決文によると、会長が配布した文書(インターネットで配信された記事や公刊物等)の内容は、在日を含む中国や韓国、北朝鮮を強く批判したり、そうした国の人々などを「死ねよ」「嘘つき」「卑劣」「野生動物」などと激しい人格攻撃の文言を用いて侮辱したりする一方で、日本の国籍や民族的出自を有する者を讃美して中国や韓国、北朝鮮に対する優越性を述べたりするなどの意見を表明したものでした。
そして、このような「社員研修」によって、被害者の女性が「偏見で社内が盛り上がっていくのがこわかった」と語っているように、「韓国は、日本に併合して貰っていなかったらロシアの配下となり、スターリンにでも虐殺されていたと思います。さすがに嘘はついても責任を取らない、嘘が蔓延している民族性だと思いました。」「中国、韓国の国民性は私も大嫌い」などという感想を抱いた社員が「育成」される結果へとつながっていったのでした。
 差別について、野口氏は「個人の特性を無視し、所属している社会的カテゴリーに基づいて、合理的に説明できないような異なった(不利益な)取り扱いをすること」と定義し、差別は、「基本的には行為レベルのものを指す」として、「差別行為には、集団的抹殺、暴行、財産の略奪といった身体的暴力という激烈なものから、差別扇動、侮辱、差別表現など、言語的攻撃ないし直接侮辱する意図はないがネガティブな意味づけを含んだ慣用的表現、さらには排除、忌避、無視などの隠微な行為まで含まれる」と説明しています。また、差別意識についても「差別意識(偏見)は一定の集団についての否定的な信念や感情を意味する。それゆえ差別意識(偏見)は、特定集団に対する差別を正当化し強化する方向で作動する」と指摘しています。
 このような野口氏の定義に拠るならば、フジ住宅および会長の行為は、「日本の国籍や民族的出自を有する者を讃美して中国や韓国、北朝鮮に対する優越性」の主張を「正当化」するために、「在日を含む中国や韓国も北朝鮮」に対する「否定的な信念や感情」に基づいて「侮辱」する等の「言語的攻撃」であり、人種差別であることは明白です。そして、そこには、かつてアジアで日本が植民地化および占領した地域やその住民を見下す人種主義的な尊大さが露骨に顕われています。
 差別問題を中心に日本思想を研究する歴史学者のひろたまさき氏は、戦前の日本帝国の成立の過程で形成されていった「帝国意識」について、「他民族の社会を支配あるいは従属させることを当然とし、そこにアイデンティティをもつ意識のことで、それは必然的に支配する相手の民族を抑圧・差別することを当然とする意識を伴います」(『差別からみる日本の歴史』解放出版社、2008年、287頁)と指摘していますが、このフジ住宅及び会長の行為は、敗戦によって日本帝国は崩壊したにもかかわらず、中国人や韓国・朝鮮人を侮辱する人種主義・植民地主義=「帝国意識」がいまだに根強く存続しているという問題を浮き彫りにしていると言えます。

差別の認定をめぐって
 このような会社及び会長が配布した文書について、大阪地裁は「特定の国民に対する顕著な嫌悪感情に基づき、それらを批判・中傷する内容の文献や自己が強く支持する特定の歴史観・政治的見解が記載された文書」と認定し、そうした中傷文書を反復継続して大量に配布したのは、女性の名誉感情を害するのみならず、会社側から差別的取り扱いを受けるのではないかという危惧感を女性に抱かせ、女性の内心の「静穏」を害するものと指摘、女性の「人格的利益を侵害して違法」と判断しました。
 この判決は、@配布文書について、「差別」という表現を使っていませんが、「顕著な嫌悪感情」(=差別意識)に基づく「批判・中傷」(侮辱などの言語的攻撃)であるとして、実質的には差別文書であると認定していること、A判決後の会見で女性が「私の心の痛みをくみ取ってくれた」と語っているように、女性に寄り添い、女性の身になって考えようとしていること、B職場における労働者の「人格的な利益」(労働者の「静穏」な環境で働く権利や職場での思想信条の自由)を重視することを明確にした点で、企業の社会的責任(CSR)として人権の重視を掲げたISO(国際標準化機構)の国際規格(2010年11月に発行したISO2600)に適合していることなど、非常に高く評価できる内容となっています。
 その一方、大阪地裁は、文書が女性を念頭において書かれたものではなく、中国や韓国、北朝鮮の国家や国民性、民族性といった一般的、抽象的な集団について侮辱、嫌悪などの悪感情を抱かせるものではあるものの、女性との結びつきが明確でなく、文書配布が女性個人に対する差別的言動とは認定できないので、違法ではないとの判断を示しました。
 この大阪地裁の認定は、中国人や韓国・朝鮮人に対して人種的な優越意識が存続している日本社会の中で、小学校高学年から日本名を使わず本名で暮らしてきた女性を内在的に理解しようとしたものとは到底いえないことは明らかです。差別の認定にあたって、大阪地裁は、労働者としての女性の「人格的な利益」を判断した時とは真逆なことを行っているのではないでしょうか。
 このような大阪地裁の認定について、原告の弁護団は「人種差別撤廃条約及びヘイトスピーチ解消法の主旨に照らして不当であり、人種差別の本質・問題性を理解していないといわざるを得ない」という「声明」を出しています。
差別の認定に関する大阪地裁のこの認定は、人権運動の根幹を揺るがすものであり、看過できない大きな問題を含んでいると、私は考えています。次に私が経験した二つの事例を紹介し、その誤りについて明らかにしたいと思います。

大阪地裁の判断の誤り
 二つの事例のうち一つは、今から50年近く前に私が直接体験したことです。大学の一回生の夏に、その当時つきあっていた同級生の女性から「親が興信所を使って身元調査を行った。その調査報告書を自分に見せて、『宮本は同和地区出身だから、深いつきあいをしないように』と注意された」と告白されました。私は中学生の時に自分が差別される側の当事者であることを知りましたが、その告白を聞いた時には、私自身だけでなく、私の家族とか、地域の人たち全部を足蹴にされたような屈辱感を抱きました。(詳しいことは拙著『未来へつなぐ解放運動 絶望から再生への〈光芒のきざし〉』明石書店、2013年に書きました)。
 もう一つは、すでに故人となりましたが、今から30年ほど前に私の知人Aさんが体験したことです。1988年の3月、大和ハウス工業株式会社の新入社員研修会が開かれ、そこに大学を卒業したばかりの三重県の被差別部落出身のAさんも参加していました。そして、その研修会での講義「わが社のいき方」のなかで、取締役が「君ら新入社員は同和地区にかかわるな。」「だいたいぼくは同和なんてきらいだ」という発言を行ったのでした。
 この被差別部落を侮辱する差別発言は、「一般的中傷的な集団について侮辱、嫌悪などの悪感情を抱かせるもの」(先の大阪地裁での判決の表現)であり、Aさん個人に向けられたものではありませんでした。しかし、高校を卒業して就職していた時にも差別された経験があるAさんは、この差別発言に深く傷つき、「腹の底から許せへん」と抗議の声をあげ、採用内定を辞退しました。そして、Aさん及び部落解放運動団体と会社との直接の話し合いの結果、会社側は差別発言を認めて、Aさん個人と部落解放運動団体(被差別部落を代表するものとして)に謝罪を行い、会社の重点テーマとして人権啓発に取り組むことを約束しました。(部落解放同盟中央本部機関紙『解放新聞』1988年8月15日・12月12日。なお、この「事件」後の大和ハウス工業株式会社の人権啓発の取り組みについては、大和ハウス工業株式会社・2012年度循環ワ―カ―養成講座「地域との共創共生を目指した価値の創造」に詳しく書かれています。)
 こうした「スティグマ」(烙印、徴)を付与された集団とその集団に所属する成員の差別や屈辱の問題について、自分自身も在英時代に移民局へ出向いた時に差別を受けた経験がある人種主義の研究者の酒井直樹・コーネル大学教授は「屈辱の経験が重要なのは、屈辱は決して屈辱的な行為の対象となった個人にのみに限られる感情ではないからである。私の家族の一員が辱しめられたとき、私は憤りを感じることもできる。あるいは、ある集団に対する辱しめの行為が過去に起こったとしても、その集団に帰属する私が現時点で傷つくことは可能なのである。屈辱は集団への自己画定と補足的な関係にあり、集団への自己確定が屈辱の感情の伝染性の条件になることはしばしば起こる。」(「多民族国家における国民的主体の政策と少数マイノリティの統合」『岩波講座近代日本の文化史』7、岩波書店、2002年)と指摘しています。
 「スティグマを付与された集団に所属する人々は、その集団の成員であることだけが理由で、不当な扱いや評価を受けやすい」(浅井暢子「所属集団に対する差別・優遇が原因帰属に与える影響」『心理学研究』第77巻第4号、2006年)ことは言うまでもありません。私やAさんのように、そうした不当な扱いや評価を受けた経験がある人も数多く存在しています。したがって、在日三世として自己画定していた女性が、所属集団に対する差別言動を自分にも向けられたものとして受けとるのは当然のことであり、特定集団への差別的言動とその成員である女性との結びつきが明確でなく、文書配布が女性に対する差別的言動とは認定できない、という大阪地裁の判断の謝りは明らかだといえるでしょう。

差別を隠蔽する構造の問題
 前回のブログで紹介した金教授は、「日本においては構造的に人種差別の被害が“ないこと”にしてしまう仕組み成立して」おり、そのことに関連して差別を差別として認識しない認知バイアスが「アカデミア」「マスメディア」「司法」「行政」という社会制度にも浸透していると指摘しています(金明秀「日本における人種差別の被害実態について」人種差別実態調査研究会編『日本国内における人種差別実態に関する調査報告書』[2016年版])。そうしたことからすると、会社及び会長による差別文書の配布が女性個人に対する差別的言動とは認定できないとした大阪地裁の判断は、実は日本の社会制度の中に存在している「人種差別の被害が“ないこと”にしてしまう」歪んだ認知バイアスが大きく影響しているといえるのではないでしょうか。
 この日本における人種主義の隠蔽の問題については、帝国意識を存続させる戦後日本の国家体制との関連から改めて述べてみたいと考えていますが、最後に、「人種主義に汚染されていない、人種主義から完全に潔白になれる場所は、私たちの歴史の地平にはないのである。」(「レイシズム・スタディーズへの視座」鵜飼哲,酒井直樹,T・モーリス=スズキ,李孝徳『レイシズム・スタディーズ』以文社、2012年)と指摘する酒井直樹氏の「人種主義の批判によって私たちが求めているのは、(略)私たちを分断し、競争させ、孤立させてゆくものを見いだし、その代わりに、私たちが人びととつながること、新しい共同的な生を探し求めること、そして、人びとと協力しつつ、これまでと違った未来を一緒に築いてゆくこと」(同前)という言葉を書き留めておきたいと思います。 
このヘイトハラスメント裁判を闘っている人たちの共通の願いがそこにあると思えるからです。




大阪のヘイトハラスメント裁判(1)―人間の尊厳を示すこと

 ゆめネットみえ通信
大阪のヘイトハラスメント裁判(1)―人間の尊厳を示すこと
 合衆国のミネアポリスでアフリカ系市民のジョージ・フロイドさんが警察官によって殺害されて以降、人種差別とそれを生み出した近代植民地主義や奴隷制度に対する抗議やデモが、全米のみならず世界中に拡がっています。日本においても、東京や大阪でも平和行進が行われ、人種差別解消への関心が高まっていますが、「日本には人種差別はない」「日本の人種差別は見えづらい」と考えている人が多いからか、この問題を日本における人種差別とそれを生み出した植民地主義と結びつける動きは少ないようです。
 そのような中、『朝日新聞』2020年7月3日付の朝刊は、日本社会において人種差別が現存していることを浮き彫りにしたヘイトハラスメント裁判に対する判決の記事を掲載しています。今回から二度にわたって、このヘイトハラスメント裁判を紹介し、それに関する私の考えを述べてみたいと思います。

ヘイトハラスメント裁判
 『朝日新聞』の先の記事及び提訴を報じた2015年9月1日付の記事によると、ヘイトハラスメント裁判の内容とは、次のようなものです。
2013年2月から2015年9月、東証1部上場の不動産大手「フジ住宅」(大阪府岸和田市)の職場で、「在日は死ねよ」、中国や韓国人などを「嘘つき」「野生動物」などと侮辱する雑誌やインターネット上のヘイトスピーチの文書が毎日のように会長によって配布されていました。さらに、アジア・太平洋戦争について「欧米による植民地支配からのアジアの国々を解放」するとの目的が掲げられた点などを強調した「新しい歴史教科書をつくる会」の元幹部らが編集した育鵬社の教科書を称賛する文書が配布されるとともに、各地の教育委員会がこの教科書を採択するよう、社員が住所地の市長や教育長らに手紙を書き、各教委の教科書展示会のアンケートに好意的な回答を書くよう促し、「勤務時間中にしていただいて結構です」と書き添えていました。
 この「フジ住宅」には、在日韓国人の三世として日本で生まれ育ち、小学校高学年から本名で暮らし、日本人男性と結婚しても名前も国籍を変えなかった女性がパート社員として勤務していました。会長が毎日のように中国や韓国、北朝鮮などへの侮辱の言葉か並んだ文書を配布していることに関して、彼女は「自分たちが踏みにじられている」と感じましたが、職場で怒りと絶望を抑え、帰宅して家族に会社への不満を言っては泣いていたそうです。
  「偏見で社内が盛り上がっていくのが怖かった。私のような存在の居場所がなくなる」という思いを抱いた彼女は、会社に改善を求めましたが、受け入れられませんでした。そこで、労働基準監督署に相談しましたが、「会長の表現や思想・信条の自由。取り締まる法律がない」と、このような差別が法的にも社会的に罰されないことを説明をされ、「子には憎悪や偏見に屈し、沈黙する未来を残したくない」と思い、勇気を出して提訴に踏み切ったのでした。
 大阪地裁に提訴してから5年近く経った2020年7月2日、判決が下されました。その内容は、「文書は女性を念頭において書かれたものではなく、文書の配布が原告に対する差別的言動と認められない」という見解を述べる一方、「職場で差別的取り扱いを受けるおそれがないという労働者の内心の静穏が保護されるべきだ」との判断を示し、「中傷文書を反復継続した大量配布するのは会社側が差別的取り扱いを受けるのではないかという危惧感を女性に抱かせ、女性の内心の静穏を害するものだ」と指摘、女性の人格的利益を侵害する恐れを発生させており、違法と判断しました。また、育鵬社の教科書採択運動への協力要請に関しても、「業務と関連しない政治的活動で、原告の政治的な思想・信条の自由を侵害して違法だ」との判断を示し、被告に計110万円の損害賠償を支払うよう命じました。
 この判決後の会見で、原告の女性は「私の心の痛みをくみ取ってくれた」と、時折涙を浮かべ、喜びを語りました。また、同席した原告弁護団長の村田浩治弁護士は「あらゆる企業に対し、一般的規範として『こういう行為はだめだ』と示したものだ」と評価し、判決がフジ住宅だけでなく、他の企業でも差別への配慮を促す効果があるとの見方を示しました。これに対し、フジ住宅は「私企業における社員教育の裁量や経営者の言論の自由の観点から、到底承服し難い」などとのコメントを発表しています。

人間の尊厳を示すことの意味
 まず押さえておきたいのは、人種差別実態調査研究会研究主任で関西学院大学教授の金明秀氏が「ネットや路上のヘイトスピーチを評して『不快』であると表現されることがしばしばあるが、被害当事者にとってヘイトスピーチが横行する状況は、単なる不快感にはとどまらずない恐怖として知覚されている。」(人種差別実態調査研究会『日本国内の人種差別実態に関する調査報告書』[2016年版]60頁)と指摘しているように、ヘイトスピーチや差別に接した場合、「被害当事者」とマジョリティとの間には認識の違いがあるということです。こうした「被害当事者」が抱く「恐怖」について、「日本最初の人権宣言」と呼ばれている「水平社創立宣言」(1922)を起草した西光万吉は次のように語っています。

   世間の人々が、なんでもないようにいうその侮辱的なことばは、実にわれらにとっては最も恐るべき脅迫ではないか。そのことばは、われらをいかに残酷に脅迫するであろう。生きながら葬ってやろうか。心臓をえぐってやろうか。妻も財産も奪ってやろうか。毒を盛ってやろうか。池へ追いこんでやろうか。レールに押しつけてやろうか。まったくわれらは、そのために妻を奪われ、子を失い、町を逐われ家を捨て、名を汚され、また自らの死を願うた。(『西光万吉著作集』第一巻、濤書房、1971年、67頁)

 このように差別とは人間の尊厳を深く傷つけられる屈辱の経験であり、こうした差別の圧倒的な力がもたらす「恐怖」を前にして、公然と抗議するには、よほどの覚悟と勇気が必要なことは言うまでもありません。しかも、「弱者が物言わず耐えている間は、同情を寄せる。その弱者が声を上げて主張しだすと、今度は強烈な嫌悪感と憎悪で攻撃し、そして排除する」(申淑玉『怒りの方法』岩波新書、2004年)傾向が強い日本社会において、抗議する相手が会長ですから、なおさらのことだと言えます。しかし、女性は「子には憎悪や偏見に屈し、沈黙する未来を残したくない」と、差別や不正義に対して人間としての尊厳を守るために立ち向かおうとしたのでした。
 部落出身の作家・中上健次は次女に送った手紙の中で、「もし不正義があり、そのためだというなら、不正義と戦ってほしい。しかし戦いは、暴力を振うことだろうか?違う。人間の存在の尊厳を示すことだ。」(高山文彦『エレクトラ 中上健次の生涯』文春文庫、426頁)と書いていますが、人間の尊厳を示すことで差別や不正義と戦おうとした被害者の女性に、私は深い共感を覚えます。そして、このような女性の闘いが、隠蔽されがちな人種差別を可視化し、職場で差別的言動にさらされない権利を裁判所に認めさせ、企業の一般的規範としてそれを定着させる第一歩へとつなげたのでした。
 もちろん、ヘイトハラスメント裁判を支える会共同代表の寺木伸明・桃山学院大学名誉教授が「原告本人の頑張りはもとより、支える会の皆様方の物心両面にわたるご協力とご支援、そして村田弁護団団長を中心とする弁護団の方々のご活躍があったればこそ」(「勝訴のあいさつ」2020年7月2日)と語っているように、女性の闘いは決して孤立したものではなく、そこには女性の心の痛みに共感した人たちの存在がありました。私も原告として6年近く裁判をしましたが、長期化する裁判の中で精神的な緊張に耐え続けることの重圧は計り知れないものがあり、自分の思いに共感してくれる存在の必要性・重要性を痛感した経験をしています。
 前回のブログでも書きましたように、現在、私は「大西巨人と部落差別問題―『黄金伝説』と『神聖喜劇』―」という評論(文芸誌『革』第33号、第34号掲載予定)を書いていますが、大西氏は、長編小説『神聖喜劇』の中で、「フジ住宅」におけるヘイトハラスメントのような差別や不正義の横行という「圧倒的な否定的現実」を変わらせる可能性の問題について、主人公の東堂太郎に次のように語らせています。

 広大な客観的な様相は当面さもあればあれ、「微塵モ積リテ山ヲ成ス」こともいつの日かたしかにあり得るのではないか、――もしも圧倒的な否定的現実に抗して、あちこちのどこかの片隅で、それぞれに、一つの微塵、一つの個、一つの主体が、その自立と存続と(ひいては、あるいは果ては、おそらくそれ以上の何物かと)のための、傍目にもわが目にさえも無意味のような・無価値のような・徒労のような格闘を持続するに耐えつづけるならば。・・・」(『神聖喜劇』第一巻、光文社、1978年、250頁)

 「圧倒的な否定的現実に抗して、あちこちのどこかの片隅で」、まず自分一人でも立ち向かい、そしてその闘いに共感する人が共に立つ。大阪におけるヘイトハラスメントとの闘いは、人間と社会を変わらせる力が何であるかを、改めて私たちに示しているといえるでしょう。

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