
人権講演家 具志
アンデルソン飛雄馬
Anderson Hyuma Gushi
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1978年
ブラジルサンパウロ生まれ。
4歳の時からブルースリーに憧れて5歳から空手を習い始める。
1989年
日本の少子高齢化の影響、また製造業で働く若者が減っていることから、日本は過去に多くの日本人が移住した南米の扉を開き、日系人を受け入れ始めた。
その時、日系二世の父も仕事をするため、日本に渡った。
1990年
入管法が改められ、直後に父からの電話「日本はとても良い国なので家族みんなでおいで!」と言われ、母・兄二人・妹と一緒に来日した。
来日後、しばらく工場でアルバイトしたが、後に教育委員会に話をし8ヵ月後、小学校に入学できた。
入学後、「日本人みたいな顔をしているのになぜ!外国人なの?」「お前の日本語、気持ち悪いんだよ!」「お前は日本人みたいな顔をした外人だ!とっとと国に帰れ」と言われ、いじめを受けるようになる。
1993年
中学校に入学するが、いじめは一段とひどくなり、この時から「自分を守るだけの日本語の能力がないなら、もう自分の空手を武器にするしかない」と学校で喧嘩をするようになる。
1996年
働きながら勉強をするため、定時制高校に入学した。
しかし、高校でも「この学校に外人がいる」と差別がどんどん拡大したことに耐えられず結局、暴力事件を起こし退学になる。
その後、「悪いことであってもいい。初めて自由になった。生きてる気がする」と自分に言い聞かせながら非行に走る。
1997年
暴走族を結成し直後に傷害事件で逮捕されるが、反省せずに社会に戻ってもどんどん勢力を拡大させていった。
1999年
女の子のパパになり、一年後には二人目男の子のパパになっていた。
2000年
一人の企業社長と出会い。自分の生き方を変えようと思い始め営業の世界に入った。しかし、営業の世界でも日本人ではないことが大きな壁になった。名前を言うと「外人さん?うち、いりません」で終わり。
2001年
父がクモ膜下出血で倒れ危険な状態に陥る。この時、「今まで父に迷惑しか掛けたことがない。一回でもいいから父に立派な姿が見せたい」と全国人気販売員の大会にエントリーして、半年間の競争の結果2位に入賞した。
しかし、残念ながら、結果が出る前に父は亡くなっていた。いかに自分が父を苦しめていたと思うと、気が狂ってしまい半年間ずっと自殺の方法を考えた末、一つの事件を起こし逮捕された。
再び、留置所や拘置所で過ごすことになって、葛藤した末、自分にはあと1%は人間としての可能性があることを信じて社会に復帰した。
2002年
三重県・津市と松阪市の教育委員会の国際化対応教育指導員として、小・中学校を巡回して、日本語指導や子どもたちの相談サポートを行いながら、(小・中・高・大学生・一般・行政・教師・企業・など)に対して自分たちの実態を一人でも多くの方々に理解を求めるため、講演活動を開始させた。
2003年
松阪市人権施策基本方針会議委員また定時制高校(非常勤講師)を勤めると同時に通信制高校に入学。
反差別人権研究所・人権コミックシリーズ第四弾(在日世界人問題編)「アルコ・イリス〜虹のかけはし〜」のモデルになった。
2004年
松阪城差別事件「外人よるな!」が起きる。その後、在日世界人は「聞けない・読めない・話せない」という現状ゆえに、非常に弱い立場に立たされており、これを重要な問題であるという認識の基、これからも在日世界人に関する諸問題・課題に取り組んでいく必要性から、松阪市において官民協働で多文化共生ネットワークが結成された。
最終的に差別事件を引き起こした男性は自分自身の行動や発言に気付き生徒たちに謝罪した。
2005年
離婚し二人の子どもを引き取る。
警察官の差別発言「外国人やけど、子どもやから!許したって」が起きた。後の活動により、署長が自ら謝罪し後日、警察官が学校で直接、子どもたちに謝罪した。
同日、薬局で差別事件「見た目だけで、警戒態勢」を取られ、後に「中高生グループ」「外国人グループ」を不審者として決め付けるマニュアルが発覚し抗議した。結果は全面的に差別性を認め、後日、代表取締役社長・役員・店長・関わった店員たちが直接、被害者に謝罪した。
様々な当事者団体また人権団体と共に(アルコイリス連絡会=代表・具志アンデルソン飛雄馬)を結成し「三重県における多文化共生政策の充実を求める署名」と請願活動を行った。結果、10月に県議会で請願が採択され、署名も直接、三重県知事に提出し交渉した。
直後、実態調査と人権・生活相談をスタートさせた。
2006年
特定非営利活動法人 多文化共生NPO世界人を立ち上げる。従来使われている「外国人」と同じ意味だが、国と国とのボーダーはもはやなくなりつつあるとして「世界人」という名称をつけた。また、将来的に日本人も外国人も同じ世界人として世界に目を向けられる子どもたちに育って欲しいという願いも込めている。
2007年
NHKの密着取材を受ける
うつ病になる
2008年
三重テレビの密着取材を受ける
自律神経失調症とパニック障害になる
2009年
愛知県青少年育成活動に3年間携わる
2010年
愛知淑徳大学にスカウトされ、ゲスト講師として5年間勤めた
2011年
念願の「日本で最も罪の重い少年刑務所」で講演を果たす
2012年
王手スーパーマーケットで差別掲示物が見つかり啓発活動に取り組んだ
2015年
全国飲食チェーン店「日本人用履歴書」が発覚して、それが差別であるとして啓発活動に取り組んだ
2016年
病気と闘いながらも1000講演を果たした
2019年
交通事故により、外傷性クモ膜下出血で3日以内に死ぬと宣告されるが、奇跡的に助かり、後遺障害7級に認定
2020年
リハビリとジムでのトレーニングにより、元気に回復
2021年
再び、講演家として講演活動を再開させるものの、コロナ禍により、オンラインでしか講演ができず悲鳴をあげる
2022年
講演家として20年周年を迎えたが、思うように講演ができず、YouTubeにて、積極的に動画をアップし始めた
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