愛する父へ
このページには父の大好きだった曲が流れています。
とても良い曲です。一度、聴いて見て下さい。
英語版 Richard marx
Right Here Waiting
ポルトガル語版 Leandro&Leonardo
Eu sou
desejo, voce e paixao
今、日本に来た時のことを思い出しながら書いています。
僕を含め家族(両親、兄2人、僕、妹)が、
来日したのは1990年のことでした。
あれから故郷には一度も帰らず今年で23年目を迎えようと
しております。
当時、僕や兄妹は日本語が全く話せなくて本当に苦労しました。
小学校の時も、中学校の時も、高校の時も、社会人になっても、
様々な差別やいじめを受けてきました。
「おい、お前は外人やろ!さっさと国に帰れ!」
とよく言われたものです。
僕の先祖は父の方も母の方も日本人です、従って僕は
ブラジルに生まれた日本人なのです。
ブラジルではJAPANESEと呼ばれていました。
しかし、日本では外人と呼ばれます。
この複雑な気持ち、あなたには理解できますか?
時にはこう言いたくなることもありました。
しかし、私たちには自分たちを守るだけの日本語の能力が
無かったのです。
悩んで、苦しんで、我慢して日本での生活を送っていました。
それでも家族で力を合わせて様々な壁を乗り越えてきました。
特に僕の父は優しくて強い人でした。
どれだけ苦しんでいても、父はいつも言っていました。
「私たちより苦しい思いをしている人たちは山ほどいるんだ、
私はその人たちを助けたい」
そう言った父は人材派遣関係の仕事に就きました。
日本に来て仕事の無い人達に仕事だけでなく、アパートの手配等、
身の回りの世話なら何でもしてあげるほどの優しい人でした。
朝の5時に起きて、工場の掃除をしに行き、
7時になるとバスの運転をして皆を迎えに行き、工場に送る。
それを済ませると8時から17時まで自分自身も
工場で流れ作業をして、
17時になると再びバスで皆を家まで送る。
そして残業の人たちもいるので、
19時と21時にもバスで皆を家まで送っていました。
22時頃にやっと帰宅してもまだ仕事はたくさんあります。
それは人員の管理です。
夜中になっても起きて仕事をしている、そんな父でした。
そんな父にも夢がありました。
「いつかブラジルに帰り、都会から離れた場所に土地を買って牧場を作る
そして妻(僕の母)と静かな人生を送りたい」と僕や兄妹に
よく語ってくれました。
しかし、残念ながら父の夢は夢のまま終わってしまいました。
父は過労でクモ膜下出血により倒れてしまったのです。
その後、帰らぬ人となりました。
父は会社のマネージャーにもかかわらず社長は葬式にも
来てくれませんでした。
あれだけ過剰な仕事をさせれば葬式には来れたものではありません。
こんなことは書くべきものではないのかもしれません、
僕だって書きたくはありません。
思い出すのも辛いことです、涙が流れ止まりません。
しかし、一人でも多くの人たちに日本で生活する私たちの
この現実を知ってもらいたい。
父は帰らぬ人となりましたが、
僕や家族の中でしっかりと生きています。
私たちは父の意思を受け継ぎ、人を助けようと、
母と共に教育現場の世界に足を踏み入れました。
過去に僕は小・中・高校と日本の学校を経験しました。
母はそんな僕を支えた経験がありました。
私たちはその経験を元に日本語を必要とする子どもたちを
助けたいと思いました。
妹も同じ世界に入るため、勉強をし始めました。
教育関係の仕事も今年で11年目になります。
この先も続けていきます。
日本に在日世界人差別がある限り、私たちは活動し続けます。
最後になりましたが、僕がここまで頑張ってこれたのは、
数多くの方々の助けがあったからだと
この場を借りまして深くお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
そして、これからもよろしくお願い申し上げます。
〜愛する父に捧げるこのサイト〜

具志家
2005年12月25日
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